過去の中の「誰か」のテレビの中の出来事

過去の中の「誰か」の近況を聞くたびに、
自分の現状と比べて、自分よりも幸せそうかどうかじっと考える。
性根が腐っている、と自分で思う。

「誰か」というのは手を放した過去の数多の男性もしくは
何かの諍いで距離を置いた末に音信不通になった女性のことを指す。

私と相容れなかった人たちが幸せになる=自分の生き方が間違っている、
ような気持ちなってしまうので
絶対にそんなことはない、私は間違っていなかったと
自分に言い聞かせたいのだと思う。

仮に、かつて好きだった人が、現状の私よりも幸せ風だったとして。
「もし私と上手く続いていれば、私も今幸せだったのでは?」と思ったり、
相手の現状が悲惨だったとして。
「ああよかった別れておいて。私と一緒だったら幸せだったかもしれないのに」
と思ったり。
ここまで書いて、自分の胸の内はなんて汚らしいんだろうかと本当に思う。
そして、「幸せ」とは何をもって「幸せ」なのか。
以前は、相手に新しい恋人がいるのかいないのか、うまくいっているのかいないのか、
その次は結婚したのか、子供がいるのか、家は買ったか…
などなど、自分が到達していないライフステージに相手が先に行っているととても悔しく感じた。
では、次は?私はどこまで比べ続けるのか?
子供は何歳でしゃべったか?子供がどこの学校に入ったか?職場での地位は?年収?夫婦関係?
果ては、年金はいくらもらっているのか?どこの老人ホームに入ったか?
そんなことを比べるようになっていくのか、自分は…
2年前くらいにふとそう思ってとてもくだらなく思い、比べることが少なくなった。
私の人生は他人に関係ないものだし、逆も然り、一人ひとり別の人生を、もっと言うなら別の世界を生きている。
もう良いのでは。
比べることで自分の人生を否定するような気持ちになったり、私を選ばなかった相手を蔑んだりするなら―

それからというもの、他人の近況は全て「テレビの中の出来事」、全くの別世界だと思うようになった。
自分の全く手の届かない作り物のような感じ。
自分とは無関係というか。

自分の精神衛生を保つ術をひとつひとつこうして身に着けて、私は大人になっていくのか。
それとも心が死んでいくのか。

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