「話せなかった人」として漫画を描いてきた6年間の事2
前の記事の続きになります。
「1,場面緘黙時代の苦しみは「かんもくって何なの!?」で、話せるようになるための試行錯誤は「話せない私研究」である程度区切りの良いところまで描き切った。
自分がある程度人と関われるようになっていくと共に、以前のような「最悪死ぬかもしれないが自分を漫画のネタだと思って観察しよう」という捨て身すぎるモチベーションを保つのが難しくなってきた。」
について。
私が自分の場面緘黙についての漫画を描いた理由は今までも述べていると思うけど、改めて漫画を描いた理由を振り返ってみたり、何を思ってあのストーリーにしたのか、作品たちに対して今どう思っているかなどを整理して書いてみる。
・1冊目の書籍「かんもくって何なの!?」
(web掲載時は「かんもく少女が同人BL漫画を描いて人生救われる話」)
大人になってある程度話せるようになりつつも、ずっと生き辛さを感じ続けていた6年前の私は、改めて自分の事・家族の事について向き合ってみよう…そうだいっそ漫画にしてみようかな…?
なんて考えて、色々とネットを彷徨っていた時に偶然、自分の過去の話せなさに「場面緘黙症」という症状が当てはまる事を知って、衝撃を受けた。
今まで自分の身に起きた辛い出来事は全部「自分が上手く話せない、弱い・甘えた奴なせいだ」と思っていたが、どうやらそうではなく、自分の話せなさは自力で治すのは難しい、きちんと支援や治療が必要なものだったらしい。
それを知って初めて自分自身に「いままで責め続けてごめん」と思えたし、色んな過去の理不尽な出来事(いじめや性的被害・虐待等)に怒りや悲しみや悔しさを感じる事が出来た。
と同時に、「全部自分が悪い」と思う事で何とか生きてきた精神のバランスが崩れて、「今までの人生って一体…」と本当に唖然として、この先も自分が生きて行けるのか、どう生きて行けばいいのか、何も見えなくなった。
だから自分を見つめ直すために、そしてせめて自分の経験を無駄にしないために、他の人にも場面緘黙を知って貰おうと漫画を描き始めた。
(元々は親子問題について漫画にしてみようと思っていた事、自分の人生を振り返ると家族の事も切り離せなかった事によって、機能不全家族の描写も沢山ある。)
内容については、共感して貰ったり参考になると言って貰えた反面、痛い・暗すぎる、自分の辛い事ばっか描いて悲劇のヒロインぶってる…なんて言われることも結構ある。
でも当時の私はそう思われるだろうなというのも覚悟のうえで、あえて話せなかった頃に見てきた暗い部分も描き切る必要があった。
私自身ももっとマイルドに書くべきか、前向きな話にするべきかというのは、描き始めた当初は悩んでいたのだ。
でも今から6年前、世間では今以上に場面緘黙が知られていなかったのである。
その頃私が見た、場面緘黙を知らない人達の場面緘黙に対するリアルな反応は、
「場面緘黙なんて聞いた事ないんだけど…」「これ、本当の話?(私の漫画を読んで)」「特定の場面で話せないだけなら別に大したことないじゃん」「最近は何でも障害のせいにして逃げようとする。」
…といった感じだった。
場面緘黙に治療や支援の必要性がある事を分かって貰うどころか、特定の場面で話せない事が大変だという事も、現に話せなくていじめなどの辛い経験をしている人がいる事も、話せない人からしたら他人事なのだと身をもって実感する事が何回かあった。
(勿論、興味を持ってくれたり協力的な人も私の知らない所では沢山いたとは思う。)
それと漫画を描き始めた初期の時点で、上手く話せなくて生き辛さを感じながら生きてきて、私の漫画で場面緘黙をはじめて知った人や、場面緘黙のせいでいじめなどの辛い経験をした事のある人が思った以上にいる事も、メッセージやメールなどで知った。
しかも私に連絡をくれる人は、「でも自分が上手く話せないのが悪い」「自分なんかが辛いなんて言っていいのかわからないけど…」と自分の話せなさを責めたり、辛いと伝えるのをためらっている事がとても多かったのである。
だから私は当事者以外の人に対しては、「本当に大したことないって言えますか?ちゃんと支援を受けたり向き合わなければ、あなたのお子さんや身近な人が場面緘黙になった時、こういう目に遭う事があるかもしれないんですよ?」と、投げかけるつもりで暗い部分もあえて描いた。
多分そこには、自分が感じた無関心さへの怒りの気持ちもあったと思う。
そして似たような経験をしている人達が読んでいるからには、「辛い経験もしたけどすべて許して前向きに生きてます!」みたいなキレイごとにまとめたくはなかった。
人と同じ事ができないからと言って、トラウマになるような辛い経験をしてもいい訳がないし、誰もがそう簡単に前向きに生きられるわけではない。
当事者の多くは、話せない事への後ろめたさ、周囲への申し訳なさは常に感じ続けているし、そうした気持ちや辛い経験から病んでしまう人も沢山いる。
だから「辛いと思っていいんだよ」「こういう事を誰かからされた時に、自分のせいにする必要はないんだよ」という事を、過去の私と同じような経験をしている人に伝えたかった。
「まあ、上手く話せなくて周りにも沢山迷惑かけてるんだから、理不尽な目に遭ったのもしょうがないよね」なんて方向に持っていくような、「当事者以外の人・加害者側から見て都合の良い、気持ちの良い話」にする訳にはいかなかった。
結果的にはそうした私の意図する所以外にも、暗い部分(毒親・カルト宗教・いじめ・性的被害…)も描いたおかげで、ある意味センセーショナルさが出て、色んな所でちょこちょこ話題にあげて貰うことができたと思う。
当時はセンセーショナルな部分への興味本位がきっかけでもいいから、とにかく場面緘黙を知ってくれ、と思っていたなあ。
※ただ、私の場合は環境が特殊な点も多く、場面緘黙といっても環境も状況も人それぞれだという事も、ちゃんと知って貰いたい。
最終的には自分の意思を貫いて描き切る事ができたし、漫画を描いて自分を見つめ直したり、読者の皆さんに温かい言葉を貰ううちに、自己肯定感も出てきて、どんどんと「話せる世界」や「普通の人の精神状態」を知っていった。
書籍化もしたし、結果的にはかんもく漫画を描いた事で自分の人生が大きく動いたと思う。
…とここまで書くと「結果オーライ!!!」って感じなのだが…
でもそれはあくまで結果論で、1作目に対して現在の私は
「 な ん て 危 な い 橋 を 渡 っ た ん だ … ! 」
と思っていて、決してこの漫画を描いた事を美談にしてはいけないと思っている。
だってあの漫画を描いた事は、自分の治りきっていない傷を漫画を描く形で再びえぐりだして、不特定多数の人に見せつける、今思えば精神的な自傷行為だったと思うのだ。
(※漫画「デグーのチップ君」より引用)
ギリギリのところで職場環境などに恵まれたり、自分なりの認知行動療法が上手くいったから今も生きているけど、当時は漫画を描いて自分を見つめるのが辛すぎて、ああ…描き終わったあと私は最悪死ぬかもな…この漫画が遺書になるかもしれないけど、でも何も残さないよりはましだ…!と思いながら描いていた。
あと、「悲劇のヒロインぶってる」とはある意味反対に、自分の身に起きた過去の出来事の重さを、自分でちゃんと分かっていなかったから描きはじめてしまった部分もある。
私は漫画を描いて読者の反応を見るまで、「あれ…?もしかして私、過去の出来事に対して辛いって思ってもいいのかな…?でもいざ漫画にしてみたら、やっぱり自分が悪かったんだって納得したり反省できるかも!」なんて思っているふしもあった。
「いじめ」「虐待」「性的被害」なんて具体的な言葉を貰うまでは、自分がそういう目に遭ったという認識も薄くて、いざ読者にそう言われて、自分の身に起きた出来事のあまり重さに物凄く戸惑って、その後パニック障害で倒れてしまった。
そして、パニック障害で倒れたり、漫画で精神的な自傷行為をしている事も、「すべては漫画のネタになる」と思って、常に冷静に他人事のように自分自身を観察している私もいて。
一貫して自分の中に存在する、その「常に客観的な自分」のおかげで、自己分析をして話せるようになる為の試行錯誤をしたり、漫画を描き続ける事が出来た訳で(この事については2作目を読んで貰えればわかると思う)、そこは自分の長所と言ってもいいのかな…?なんて思っていた所もあったのだけど…。
でも、その「常に客観的な自分」も、機能不全家族の元で生きてきた私が編み出した生存戦略として、自分の中に存在していたんだろうなと最近は気が付いた。
子供の頃、食事中に怒鳴り声と共に目の前をお皿が飛び交い、お皿が割れている光景を見たとき。
何をしても私が話さないからと面白がった同級生に、ものすごく痛いのに何度も背中にゴムを打ち付けられたとき。
大人たちの言い争いが殴り合いに発展し、数人の警察官が玄関の前で家の中を見ようとヒョコヒョコと背伸びをしている光景を見たとき。
学校で「仲のいい子同士でお昼を食べていいよ」と言われたけど、仲のいい子が誰もいなくて、仲間に入れてという事もできなくて、心の中で「どうしようどうしよう…」とみじめな気持ちになっているとき。
…そうした怖い時、ピンチな時、みじめな時などの平常心じゃいられそうにない時が、子供の頃の私には沢山あった。
でもそれを全部直視すると心がおかしくなるから、いつからか平常心じゃいられそうにない時は、自分の身に起きている事を「わあ…シュールな光景だなあ」「ああこの人は私の事、心が無い・痛みを感じないって思ってるんだな、まあその気持ちわかるよ」「ぼっちでみじめなやつだなw」なんて他人事のように思う事で、何とか自分を保ってきたのだ。
次第にそうやって自分の身に起きている事を他人事のように扱いすぎて、自分の素直な気持ちが自分でわからなくなっていったり、いざという時に自己主張ができなくなっていった。
……これ、恐らく場面緘黙とも関係していると思うんだよね…。
自分の中の客観性によって漫画は描き切れたけど、そもそも自分の事を他人事のように扱いすぎていたのも話せなさと繋がっているんじゃないかと今は感じていて、長所と呼べるような良いものでもなかったなあと思い始めた。
と、そんな感じで1作目は、当時の私の物凄く切実な想いが実を結んだ作品ではありながらも、今思えばとても危うい日々の連続だったなあと思っている。
そして、当時よりも平穏な日々を送れるようになったからこそ、今の私にはあらゆる面でここまでして自分の話を描く事はできない。
・2冊目の「話せない私研究」
(WEB掲載時は「話せない私を考える」)
1作目がとにかく私(場面緘黙当事者)の内面にスポットを当てている、「辛い辛い、こんな目に遭った…」という内容で、恐らく
「辛いのは分かったけどさ、じゃあ周りにどうして欲しい訳?どうしたら場面緘黙は良くなるの?」
とうんざりする人がいるだろうなというのは、描いている時から思っていて、「2作目で前向きな話や、参考になりそうな事を描くから、とりあえず今はこのまま描き切らせてくれ…!」とずっと心の中で繰り返し思っていた。
1作目「かんもくって何なの?」を出した責任を果たすようなつもりで、場面緘黙とは自分にとって何だったのかについて、自分なりの答えを出したのが2作目だ。
漫画の内容自体は1作目を描いている間の自分を観察して気が付いた事や、人とコミュニケーションを取れるようになっていった経緯について。
自分の経験を通して気が付いた、場面緘黙改善の糸口になりそうな事をとにかく詰め込んだつもりだ。
前作と比べたら前向きで、読者側も辛くてもう読めない…となるようなシーンはないと思う。
私も描いていて前作みたいに倒れる事はなかったし、日常でも大分安定していた。
…が、1作目と2作目、どちらの方がモチベーションを保つのが大変だったかというと圧倒的に2作目の方である。
1作目の方が精神的にも色々危なっかしく、描くのも滅茶苦茶辛かったのは間違いない。
しかし、1作目は場面緘黙を知って欲しいと言う気持ちがあったのは勿論だが、何よりも自分のために描いていた。
倒れる程に辛くても、言葉で誰かに自分の事を伝えるのが難しい私には、漫画を描く以外に前に進む方法がなかったから描くしかなかったし、描く事によって自分自身についての発見が常に沢山あった。
自分で自分の事を肯定的に見る事が難しかったけど、描く事で過去を見つめ直して自分に謝ったり、読者の方の反応を見る事で、やっと自分を肯定できるようになった。
しんどくもあったが、描く事で自分に返ってくるものが沢山あったのである。
あと私は漫画バカなので、「今自分が一番興味深い話を描けるとしたら自分の過去の事ではないか…?」という好奇心もモチベーションを保てていた理由の一つかもしれない。
しかし2作目を描き始めた時点では色々と状況が変わっていた。
私は漫画だけに頼らなくても、日常で人とコミュニケーションが取れるようになった。
常になんだか息苦しくて色んな事にビクビクしていた今までと違い、まだ波はあるものの、平穏な精神状態を知った。
だからこそ、1作目の時のように思い詰めて漫画を描く事が異様だと改めて感じたし、自分を大事にできるようになったからこそ「そこまで自分を切り売りしなくても…」という気持ちが生まれた。
また、自分の気持ちを振り返って描き綴った1作めとは違って、自分が人と関われるようになった試行錯誤の方法を上手い事言語化しつつ、場面緘黙の実際の治療方法なども調べつつ、矛盾がないように慎重に慎重に描き進めていく必要があった。
場面緘黙の治療についての情報は少ないけど、後々誤解などが生まれたりしないように、とにかく他の人の参考になるように…。
自分の事を以前より尊重できるようになったおかげで、「自分を他人事のように客観的に見る」事も前よりはできなくなっていて、でも前作よりも徹底した客観性が求められる内容だった。
前作以上に色んな所に配慮を込めたつもりだ。
そうして気が付けば漫画を描く事が、自分の為<<<<<周りの為・責任感によるものになってしまっていたのだと思う。
勿論周りの為に頑張れることは良いことだと思うが、自分が得るものがないと感じる中で、ましてや自分が嫌いな自分自身の事を描き続けるのは、自傷行為とはまた違うしんどさがあった。
まだまだ日常で気が付いた事、変化していっている事などは現在進行形で増えていて、「これも漫画にして伝えたら誰かの役に立つかも!」と思う出来事は日々色々起きている。
だから今後も自分のメンタル部分の話は描き続けるつもりはあった。
しかし、話せない私研究を出した後も何個か自分自身についての漫画を投稿したけど、
最後の方は、描かなきゃ!と思うのに机に向かえず、でも漫画を描かなきゃと思っているから他の事も何も手につかず、血走った目でベッドに横たわり天井を見つめたり、漫画の事を考えないで済むから、ブロック崩しなどの単純なアプリゲームで丸一日現実逃避してしまっては、漫画が思うように描けなかったストレスで、さらに強いストレスを感じる…といった日々を繰り返す悪循環に陥っていて、ある時ついに「ああ、ここまでして描くものではないな…」と思ったのだ。
元々私は結構早筆で(内容にもよるが)、漫画を描くのが最高に楽しかった時は、1年で20冊以上の同人誌を出したことがある。
その私が、ここまで手が止まってしまっているのだ。これは深刻だ。
自分が救われるために漫画を描いてきたのに、気が付いたら描く事に苦しんで病みかかっている。
これはもういったん手を止めるべきだと思った。
(続く)
(2記事位で終わらせるはずが滅茶苦長くなってるよ~~~~
助けて~~~~~)
サポートいただけた場合、ありがたく場面緘黙についての資料の購入費・漫画を描くにあたっての画材費等に使わせていただきます。個人で制作している為、少しでもサポートいただけたら幸いです。