フジ子ヘミングさん、逝く
ちょうど、アニメ「ピアノの森」にハマっていたときだった。ピアノに魅せられ、生の演奏を聴きたい!という衝動に駆られ、近くで行けるコンサートはないかと検索したところ、フジ子ヘミングさんのリサイタルが青森は弘前であるとのこと。期日も近い。早速手配して、弘前に行った。
あれは何年前のことだったか。フジ子ヘミングさんは当時何歳だったのか。生のピアノリサイタルを聴くのは何十年ぶりのこと。思い出せるのは、マル・ウォルドロンのジャズピアノだ。
技巧とか、出来具合とか精度の高さとか。そういうのを考えること自体がナンセンス、と思わせる、一人の人間がその指を腕を、体と脳を使って、「心を込めて」「ただ弾くことだけを」「聴く人に届くようそれだけを願って」。さながら「祈り」にも似た行為。さながら「歌う」かのような、悦びも哀しみも怒りも。すべてをのせて、その瞬間を「生きる」行為。
聴くことができて良かった。その場にいることの幸福。感謝。今日も一日を過ごせたことの喜び。
拍手の仕方とか、礼儀とか。そういうことはどうでもいいの。私だって、よくわからない。さながらそんな声が聞こえてきそうな、彼女自身も弾く前とか後の仕草、順番などどうでもよくて。ただ、「弾く」「奏でる」「届ける」「伝える」「分かち合う」。その瞬間を紡ぎ出すことだけに全身全霊を捧げる。
彼女が弾くカンパネラは、ピアノ自身が彼女の心が乗り移ったかのように喜びを奏で、キラキラしたものがピアノと、彼女を取りまいていた。
その姿に、奏でられる音に。ただ、ただその空間にいることが幸福だった。
その彼女が生を全うし、天に召された。
人生の艱難辛苦を逃れる途(みち)は二つある。音楽と猫だ。
シュヴァイツァーの言葉だというが、私にとってはフジ子ヘミングさんご自身の言葉にほかならない。
彼女が辿った人生は彼女自身のもので、察するのもおこがましい。
感謝とリスペクトを。ありがとうございます。安らかに。