あの客

 いつも夜の九時半にコンビニへ来る、肩まで伸びた暗めのオリーブの髪色を、軽いポニーテールで束ねている、三十代位に見えるテンション低めの、仕事着の制服とエプロンまんまの女性客。いつも何かしらの物とハイライトメンソールを注文する。ああ、今日も来た。
 「あと、ハイライトのメンソール一つお願いします」
 はっきりとしない低い声とパッとしない見た目が、僕は好きだった。正直、歳の差とか僕には関係無くて、向こうが良ければ全然いいんだけどなあ、なんてくだらない妄想をしている。
 煙草だけ買いに来ることもあるけど、美味しいのかな。お金がかかる事と、健康に良くないってことしか分からない。痩せるとも聞くけど、どうだか。
 「ありがとうございましたー」
 十時になって、バイトが終わった。帰る前に、よく買い物をする。煙草は買わないけど、缶チューハイと明日の味噌汁の素は買っていく。一人暮らしだから全てを自分で済ませなければならない。一日は意外と短いし、一時間はもっと短いのを身を持って知った。家に帰ってシャワーを浴びれば、一日がもう一時間半も無い。次の日の課題を済ませて、後は寝るだけ。課題はバイトのある日はしないって決めている。
 金曜日の朝、今日は学校が昼まで。バイトは基本木金日にしている。教授の話を聞いてメモして、またバイトになる。今日もいつもの人が来た。
 「あと、ハイライトのメンソール一つお願いします」
 今日はハイボールのロング缶とラムネを買うようで。
 「あの、」
 「はい?」
 「頑張ってね」
 「ああ、どうも」
 戸惑いを隠せずにいた。そんなこと一切言う人ではないと思ってた。レジの後ろにある窓から、あの人が歩いていくのを見た、見られた。
 恋愛なんてここ数年していないから、客としてとか街でのすれ違いではないもので、少し目が合うだけでドキッとしてしまうしょうもない自分がいる。自分と、ただの客なだけという言い聞かせに、やや大きな溜息が出た。帰り道にまた不意に思い出して、くだらねってポロッと出た。いやでもあれは、いや、あほくさ。
 土曜になった、授業は休みだし、バイトもない。課題を消化するのも良し、友達と遊びに行くも良し。でも心が少しだけ落ち着かない。結局課題に身なんて入らず、一日の早送りだった。
 でも完全に無駄だったっていう訳でも無く、今度店に誰もいないとか、同じ時間帯の人も店前に立っていない時に、煙草って美味しいんですか?って聞くことにした。好きだから吸ってるとは思うから、そこまでくだらない質問はしない。
 思ったよりも早くその時は来る。
 「あと、ハイライトのメンソール一つお願いします」
 今日は葱鮪と枝豆とハイボールを買うようで。会計を終わって出ようとしたところを引き止めた。一度も話した事が無いから、少し勇気が必要だったけど、ちゃんと聞けた。
 「二十歳...は流石に過ぎてる…よね」
 「ええ、まあ」
 「うーん、口じゃ伝わらないだろうから、一本あげる。公衆電話の裏に隠しとくからさ、帰り忘れないでね」
 あ、どうも、という言葉が聞こえたかどうか位に足早で帰って行った。窓から外を見れる程、心に余裕が無かった。覚えているのは、少しだけ目を細めて、その分微笑みがあった事。後々考えて流石に過ぎてるって言われたことをなんとなく思い出した。丁度二十歳だけど、顔が老けて見えるから、二十後半に見られるのはおかしくない。ほんの差でウォークインから同じシフトの人が戻ってくる。バレてはいなさそうで良かった。
 帰り際、しっかりと公衆電話の裏に、付箋で包まれた煙草を見つける。付箋には「一本だけだよ」と書いてあった。ライターの事をすっかり忘れて、しょうがなくやかんと一緒に火をつけた。
 ベランダから外は静かで、星がよく見えた。煙草の吸い方なんて分からず、なんとなくすっきりとした甘い味を舐めて、思いっきりむせてしまった。夜の暗さに薄れていった。慣れたら美味しいのかな、でも一本だけだよ、ね。
 それから数週間、バイト中に来ていたあの客を見なかった。確かに自分の言動が不審過ぎるよなって思っていた。煙草はしっかりあの一本だけで、しっかり約束を守っている。
 一ヶ月程経ったある日のバイト、あの人がいた。髪は黒くて耳が隠れる位まで切っていた。制服もエプロンも着ず、ただの黒シャツジーパンだった。マスクをしていたけど、顔やシャツから覗く手首には痛々しい痣や切り傷があり、目は軽く虚ろになっている。レジに来た時、また誰も店にはいなかったから、勇気を出して聞いてみた。
 「痣、大丈夫ですか?」
 話はなんとなく聞こえていたようで、ああ、と軽く呟くと、裾を少し引っ張った。
 「…煙草は?どうします?」
 「…あ、いや」
 「そうですか」
 黙々と会計が進む。たこ焼きとスパゲティと、健康茶とティッシュ。いつもそんなに買わないのに、忙しいのかな。忙しくあって欲しいな、そうであって欲しいなと願った。
 それから三ヶ月程、一回もレジで対面しなかった。ウォークインにいる時はたまにそれっぽい仕事着を見かけるが、同じような人がちらほら買い物に来るから、あの人かどうかは分からない。金曜の夜、いつも通りウォークインで作業していると、レジからヘルプの呼び鈴が鳴る。いつも通り着ていた上着や手袋を脱ぎながらレジ前に立つ。
 「お待ちのお客様、こちらのレジへどうぞ」
 対面した客は仕事着の制服とエプロンまんまのあの人だった。思わず、あっ、と聞こえない位に軽く漏れる。痣は別の箇所に薄く残り、髪は黒のまま短くなって、塞がったピアス穴が見え隠れしていた。今日は紙パックのオレンジジュースと小さな箱入りのチョコレートを買うようで。
 「煙草はどうします?」
 「いや、大丈夫です」
 そう言うと、代わりに一枚の紙を差し出してきた。「もう要らないよ やめたんだ」と少々乱雑な文字で書かれていて、黒く塗り潰された所に目を凝らすと、てへんの様なものが書いてあった。持ってきた商品を打つ両手はなんとなく動かしながら、紙から女性客へ目を移すと、こちらをいつもの表情で軽く会釈した。目と会釈で返して、いつも通りの接客でありがとうございましたで終わり。その後も並んでいた客の会計も済ませて、元の業務へ戻る。
 無事で良かった、また会えた。僕の事を覚えていてくれた。煙草、辞めたんだ。あの人がいつも買うから、僕も少し気になってたんだけどな。医者になんか言われたのかな、そういう事にしておこう。
 それから一週間後の夜、またあの人が来た。いつもと同じ仕事着の制服とエプロンまんまで、今日はスモークチーズと胡瓜の漬物を買うようで。痣もすっかり消え、以前となんら変わり無かった。
 やっぱりこの雰囲気とか、声が好きだった。客相手にこんな事を考える時点で駄目だけど、渋々抑えるしか無かった。少しだけ意識が抜けていたのか、大丈夫ですか、と声をかけてくれた。
 「あ、ああいやその良いなって…いや、良いなってのはその…」
 「その?」
 「ただの独り言です、すみません、ハハ」
 「三年経ったらさ」
 いつもよりもハリのある声で続ける。
 「三年経ったら、考えてあげる」
 見透かされていたのかもしれない。慌ててとぼけるが、ふふ、と笑って店を出て行った。超がつく程ドジをした。ウォークインに入ってる同じシフトの人も他の客も居なくて、ただ一人、ぽつんと焦りと恥ずかしさに説明のしようが無い汗を垂らして、すっきりとした塩の味を感じた。
 三年経ったらって、三年経ってもまだ三年あるじゃん。追いつけないなんて、なんか痛いよ。


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