夢を見ていた

 水曜の夜九時少し前、家のチャイムが鳴る。恐らくは注文したカフェイン錠剤だろう。病院の先生には止める様に言われているが、一日という時間を水を飲む感覚で作業を進めねばならぬ自分は、そんなことに耳を傾けている場合など無かった。究極の音、一音一音を産み出せるアイデア全てを振り絞って重ねて、そこに言の譜を載せる、最高峰の曲を作る為には、生活等投げ得る覚悟は出来ていた。既に知名度は有る。自分のそれまでの曲を聴いてくれる人も百万といる。しかしそんなものはどうでも良かった。何なら認めて貰う必要等すらも消えかかっていたのかもしれない。それ程に自分は最高峰の曲というものを作るという一点に捧げていた。自分の命考える隙間さえ一ミリ存在しなかった。

 座ったままの作業から数時間ぶりに立ち上がると、立ち眩みに耐え切れずにまた椅子に座ってしまった。それでも人を待たせてはいけまいとよろめきながら玄関の扉を開けると、そこには誰もいなかった。ただ床に置かれた箱があるだけだった。トラックの姿も、音すらも無く、風の流れと道を走る車の音だけだった。状態も相まってか、親切不親切という考えよりも不気味さの方が上回っていた。

 とりあえず家の中へ運び、いざ箱を開けると、そこにはいかにもとした見た目の壺が入っていた。割れ物なのにプチプチには包まれておらず、ただの模様が付いただけの壺が入っているだけだった。他の人のものと間違えたのだろうか、それにしては宅急便の人が雑とかの域とは違う何かだと思った。郵送した会社に電話をするが、九時を過ぎたコールセンターは対応時間外になっていた。

 壺を買う人なんているのか、と思ったが、花瓶として使う人もいるだろうな。蓋を開けると、パンと音が鳴り煙が噴き出す。夢では無い、水色で半透明の体をした幽霊の様な少年が立っていた。十秒の内に不可解が立て続けに起こり、声を失う。

 「起こしてくれたのは君かい?」

 透き通る声で彼はそう話しかけてくる。そもそも起こすとは何だ、一体何が起きている。何も言わず、意図せずただ彼の顔の奥まで見える不思議な感覚を見つめていると、いつの間にかそっと手に触れてくる。人の温かさでは無い、でも暖かくも、冷たくも無い。手や物がそのまま触れている感覚がある訳では無く、しかし何も無い訳でも無い。例えるなら塊のぬるま湯、いや、寒天で固めた泥水、これも違う。夢で触れる他人の様というのが一番近いのかもしれない。

 「大丈夫?生きてはいるよね」

 「あ、ああ、はい」

 「良かった。まあ、そう驚くのも無理は無いか」

 「でも、俺はボトルのカフェイン錠剤を注文筈だけど」

 「そうなんだ。じゃ、一緒に外に出ようよ」

 支離滅裂な返事をされる。曲を作らなければいけないという重荷も一緒に伝えると、そんなの後でいいじゃんと言われてしまった。

 「お前、名前は?」

 「何だったかな、分かんないや」

 「そうかよ」

 壺から出てきたり体が半透明だったりと不可解ままならないが、不思議とすんなりと受け入れる事が出来た。一ヶ月ぶりに家から出た。夜風は涼しく、息を吐く熱い空気が冷えて負ける位に季節は過ぎていた。ペタペタと後ろからそれが着いてくる。

 「お前、裸足かよ。靴貸すぞ」

 「いや、要らないよ。それよりあの崖を目指そう」

 あの崖とは何だろうか、思い出すのに一分も要らなかった。星が良く見えて潮風が靡く、あの崖だった。いつもあの場所へ行っては、危ないからとお父さんに怒られていたのを覚えている。一人で暮らし始めてから六年、心はどうにも苦しいんだ。

 歩いて三十分もしない内にあの崖に着いた。昔と比べて小さく見える、俺も大人になったんだな。

 「見てよ。月が綺麗な満月だよ」

 夜が明るいのはそれが理由だった。スマホすら手に持たずにここまで来てしまったけど、道が暗くも良く見える。地面に生えている草は靡き、潮の壁に当たる音が遠く響く。

 「どうしてここを知ってる。お前は誰だ?」

 「まだ、思い出せないや。でも、君は僕を知っている」

 「何言ってんだ、初対面だろ。お前は俺の名前知らねえだろ?」

 ふふ、と笑い、崖のギリギリまで歩み寄る。

 「おい、危ねえぞ。これ以上は駄目だ」

 聞き覚えがある言葉だった。言われた言葉だった。そうだ、これは。

 気付けば、隣まで歩いていた。地面は遠く、光を通さない黒い海が広がる。昔は知らなかったが、今では命の危険をしっかりと感じる事が出来る距離だった。

 「月、綺麗だね」

 今の自分は惨めだった。他人は疎か、自分さえも理解出来ない事を受け入れようと必死に一音を当てていた。あれも違うこれも違うと、無限に終わらないループを試練だと突き詰め、完璧を求めていた。先駆者としての心意気だけは十分、しかし澱み拗れ廃れた自分は、もうただの廃棄物だったのかな。不意に左手を掴まれ、全てを思い出す。あれは、少年だった。

 結局最初、心の中では、他人に理解されるものを作りたかったんだ。全く、こんなとこまで来ちまったんだな。一秒、見た事のない景色を歩む。

 「そうか、お前は」

 一秒、夢を見ていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?