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【掌編】非常階段

 非常階段を見上げるのが好きだ。
 ここのビルの非常階段は、鉄格子のような手すりの隙間から人の姿が丸見え。だから失格。ここのビルの非常階段はコンクリート製の手すりなので、しゃがみ込めば人の姿が見えない。合格。
 普段は使われることのない、非常事態に使われる階段。その階段を使う自分をいつも想像する。
 非常事態。火事や地震など災害が起こった場合だけではない。自身が傷つき、耐えがたい苦しみを得た時もそうである。逃げ出さなければ、鉛のような冷たいモノに足首を掴まれ、暗闇に飲み込まれてしまいそうな場合もそう。
 そんな非常事態だというのに、おそらく私は平気な振りをしている。周囲に余計な心配をかけてしまうのは迷惑だから。いつもより明るく笑ってさえいるかもしれない。今日は機嫌がいいんだと思われるくらいに。
 やがて息がうまく出来なくなる。空気はどれくらい吸えばいいんだっけ。吐けばいいんだっけ。三秒吸って七秒吐けばいいって聞いたことがある。一、二、三……。一、二、三……。どうしよう、七秒もたたないうちに吸ってしまう。
 非常事態だ。
 サイレンが鳴り響く。私はお手洗いに行く振りをして席を立つ。
 そうして、やってきたのが非常階段前。緑色の光を放つ非常階段のランプ。重い鉄製のドアを押し開ける。
 ダムが決壊したように押し寄せる光に飲み込まれる。あまりにも眩しくて目を閉じる。ようやく慣れて開いた目の前に広がるのは空だ。いや、海なのか。カラスが横切った。カモメじゃないなら空なんだろう。
 なんて正しいんだろう。青く澄んでいる。正しいってこういうことだ。横切るのが幸せの青い鳥じゃなくカラスだとしても、それは正しい。青い空は正しい。正しすぎて眩しい。いつもなら目が眩むほどの正しさだけれど、今はそれが最も必要。
 蟻地獄のような暗闇に飲み込まれないように、私はその正しさ縋る。必死で手を伸ばす。
 やがて、息が出来るようになっていた。どれくらいの空気を吸えばいいか、吐けばいいかなんて考えはとうに消えていた。
 しゃがみこむ。コンクリート製の手すりなら、外から私の姿など見えない。非常階段に存在する私はなかったことになる。ここなら泣いてもいい。泣いていたって誰も助けに来ない。それでいい。それがいい。
 ひとしきり泣いたら、再び空を見上げる。眩しすぎて目が開けられないや。横切ったカラスの間抜けな声に笑いそうになる。
 もう大丈夫だ。大丈夫。
 立ち上がる。大きく背伸びをする。私は今非常階段で生まれ変わりました。産声をあげたいくらいの気持ち。
 非常階段の扉を引く。こんなに軽かったっけ。
 廊下の蛍光灯の光。不自然なその白い光の中に足を踏み出す。
 戻る前にトイレに行こう。きっとメイクも落ちているだろうから少し直さなきゃな。充血した目には目薬をしよう。
 非常階段はこんな場合にも使っていい。
 

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