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私たちの記憶力

 記憶にはいくつかの種類がある。
 
 分類の仕方もいくつかあって、短期記憶、長期記憶。言語化できる記憶、できない記憶など、最近はテレビ番組等でも目にする機会は多い。
 人によってそれぞれの記憶に得意不得意があるが、それなりにバランスをとって、人は自己の連続性を維持している。

 だが、不得意分野が日常生活に差し障るほどになると、多くの人は病院で何らかの診断名をつけてもらう。発達障害はその最たる例だ。

 ADHD当事者の作動記憶(次の作業の為に一時的に覚えておく記憶)は往々にして弱い。
 わざわざ検査をして指摘されなくっても、そんなこと、自分でよーく知っている。
 帰ってきて、おかずをレンジでチンしようと思ったら、朝のココアが冷たくなってお出迎え。最早レンジをあけるとき何が入ってるんだろうと、驚く準備をしながら開けている。自分で自分にドッキリをしかけてるみたいだ。

 では、私たち発達障害者は「記憶力」が弱いのか。前述のセルフドッキリに矛盾するようだけど、これは一概にそうでもないのではないだろうか。


 「記憶力」―――私は、色々な記憶を複合的に運用し、自己を保持する力だと思っている。
 作動記憶や意味記憶が国語や数学のような教科別の得点なら、ここで言う記憶力は合計点だ。そして、この合計点の帳尻があっていれば本人の中では意外と自己の連続性は保たれる。(周囲からは連続性が見えないので社会生活上の齟齬は出るが)

 私が私である、という連続性を多くの人は重んじる。それが全てではないけれど、やっぱり「私」の大半は経験、つまりは記憶の積み重ねなのだ。

 だからこそ、記憶において極端な苦手分野を持つことは、大きな不安だ。そこから自己の連続性を失うことは、本能的にどうしても避けたい。
 結果、本人も無意識のうちに、得意な記憶が大変鮮明になることがある。
 合計点の帳尻を合わせしようとした発達障害者の「記憶力」は、ときに健常な人を驚かせる。
 
 長期記憶の中に、エピソード記憶いうのがある。
 あの時あなたとはあんなことがあったね、と文字通りエピソードを保持しておく力だ。私はどうもこれが人様より強いらしい。
 エピソード記憶は感情と結びつきやすい為、楽しかったり悲しかったり緊張していたり、何か平時とは違うテンションのとき、より鮮明になる。生来、感情幅の大きい私の頭の中には、動画にとったような記憶の断片が山ほどある。

 だからこそ私は若い頃、旅行添乗員として仕事を続けることができた。
 領収書をなくし、クーポンをなくし、精算書の計算を間違え、日本中の道の駅でペンを落とし、饅頭の注文個数を間違えて、余った饅頭の証拠隠滅で2キロ太った私だったが、1年ぶりにツアーに参加した人を覚えていて「そのペンダントは前回、私と伊勢に行ったときに買われた真珠ですか。良い思い出にして下さっているようで嬉しいです」と声をかけることができた。
 先輩に教わった「何かひとつでもお客の特徴を覚えて、次に会ったとき覚えていた事実をプレゼントしろ」を愚直に実行しただけだったが、顧客アンケートは上々だった。
 でも、後輩に顧客対応を聞かれて、得意になって同じように教えたら「そんなのいちいち覚えられるわけないでしょう」と呆れられた。私が前回のツアーのお客ひとりひとりの特徴を述べてみせると、珍しそうに、ちょっと気味悪そうにしていた。
 ちなみにこの後輩は大変優秀で、私がぼんやりお客さんの胸元の真珠に見とれている間に、領収書を数え精算書を2回電卓し、次回のツアーの宿に電話をかけていた。

 そうか、覚えてられないのか。

 私は驚いた。後輩は間違いなく私より聡明なのに。
 そもそも、彼女はお客の特徴を覚えて雑談することで、ツアーを戦っていなかった。だが、事務処理が遅くミスも多い私は、お客と人間関係を築くことでそれらをカバーしなくてはならない。
 ツアーの興奮や緊張感によって、あの頃の私のエピソード記憶はより鮮明になっていたのだろう。

 思い返せば、最初にアドバイスをくれた先輩が、私と近い特性がある人だったのかもしれない。彼が注文個数を間違えて自腹で買い取った駅弁を、私に食べさせてくれたのは1度ではない。

 仕事をやめた今でも、友人と

私「あ、いまカレーの匂いした、今度カレー食べにいかない?」
友「いいよ。カレーて空腹だと香水以上だよね」
私「だねー。『香水』いい曲だったよね」
友「ライブ行きたかったけど、やめたんよ。コロナで。あっコロナ対策してある店にしようね」
私「コロナ対策ね。予約しとく。12時でいい?」
友「お願いします」

 みたいなやり取り(仮)があったとして、私は数日後のカレー屋に、自分で予約したにもかかわらず、最悪忘れて行かなかったりする。でもその一方で、約1年後の友人の誕生日には瑛人氏のライブチケットを贈ったりもするのだ。
 こういう場合、行きたかったんでしょ、と私が得意げに微笑むと、相手は感激するよりも怖がる。
 何でアンタがそんなこと知ってんの、と。


 意味記憶というのもある。いわゆる知識のことで、物の名前や人名などを保持する力だが、発達障害の人の中には、この意味記憶にものすごい強さを発揮する人もいる。
 ASD傾向で集中力やこだわりのある人に多いイメージだろうか。彼らが羅列的な固有名詞を図鑑のようにすらすら答えるのには、純粋に見とれてしまう。
 
 娘の療育友達の男の子は3歳時点でイオンの駐車場の車の車種が全部言えたし、娘もほんの数回私のスマホにお守りさせたら、ポケモンGOのアプリを開いて膨大なポケモンの名前をみんな覚えてしまった。

 世の中には、私とは逆に作動記憶が強い人もいるだろう。手続き記憶(言語化できないけど、身体が覚えてる)が強い人もいるだろう。

 それらの特徴が傍目にはっきり目立つ人は、何かしら記憶の得意不得意にばらつきがあって、得意な部分で苦手を補って生きている人なのではないかと、最近思う。
 平均的にバランスよく記憶できる人は、聞いてみたら何でも覚えているのだろうが、多分わざわざ「覚えている」ことをアイデンティティ化したりしない。覚えていられることが、ごく当たり前であるなら、自己の連続性(つまり記憶)を自他へ確認し続ける必要などないのだ。


 こうして考えたときに、私たち発達障害者の記憶力を単なる強弱で測ることは難しい。
 
 私たちは2点の科目を補う為には別の科目で8点をとらねばならないが、5点と5点の人に混ざった場合、場面によって2点のみ、8点のみが評価の対象になるからだ。
 私自身、友人にとっては「週末の予定すら覚えていないくせに、いつの間にか欲しいものを聞きだしていて誕生日にくれる変なやつ」だろう。

 だから、これは私自身、自戒をこめて思うのだけど。発達障害者の皆さん。

 発達障害者は記憶力が悪い。覚えが悪い。

 って、一様に卑下するのやめません?
 確かに覚えてないとき、あります。でも、逆にめちゃくちゃ覚えてるときも、結構あるから。

 あ、でもでも、だからといって「こんなに覚えてる!」ってことだけをアイデンティティにするのもやめた方がいい。私もやめる。
 どんな種類の記憶であっても、記憶は全て、過去だ。これまでの自分から今の自分へ。連続性を気にするあまり、後ろばかり見て転んだら本末転倒すぎる。

 過去にどんなイヤなエピソードがあっても、知識とは違っても、身体が勝手に逃げそうになっても。
 「今」まさに記憶へと変化しつつある、この瞬間の私。忘れてしまうかもしれない、今この私が選ぶことを、「私」は最優先に肯定したい。


参考 脳科学辞典「記憶の分類」


 投稿時点で参考文献としていたファイルにミスがありましたので、再掲載致します。申し訳ありませんでした。(2月10日 蛙鳴) 

 
 

 

 

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