久方ぶりの、

約1年ぶりに中・高時代の同級生に会った。
いわゆる"親友"である。

親友であろうと、私の昔を知る人間に会うのは緊張する。「親友が慕ってくれていた昔の私と、今の私が違っていたらどうしよう」という不安があるからである。そんな一抹の不安を抱きながら、親友に会ったのだが、まあ、結果を言うと、今の私を存分に曝け出してきた。随分と、すっきりしてしまったのである。

約1年。
積もる話はたくさんある。
私は仕事に変化あったし、親友はプライベートに変化が起こった。

私の近況に親友の近況、旧友たちの現在の噂話や将来の展望や不安。それはそれは語り合った。合ったというより、むしろ私が話していたような気がする。そこで私は思ったことを素直に発言したのである。学生時代は極力マイナスな発言は避けていたのだ。たぶん、きっと、そうだと思う。思い出を美化していたら申し訳ないが。しかし、いいと思えないものを「いい」と言えるほど、私は思春期でいられなかった。「なんか合わないね」「えぇ、意外」と正直に伝えた。25にもなって思春期でなんかいないわけだが、私の中に芯というものができ、図太さと図々しさが居ついてきたのだろう。「他人にどう思われても構わない」とまではいかないが、「私が何を思っても自由だ」という思いを認められるようになった気もする。それと同時に「多少マイナスな意見を持たれても、自分の中で誰かに話したい気持ちがある」ということにも気付いた。え、冷静に考えて遅くないか?
ずっと、私の中に、家族に対する曖昧な気持ちがあった。しかしそれを言ってしまうと、なんだか私や家族の恥ずかしい部分が知られてしまうのではないかという不安があったのだ。そんな不安がありながら、親友にすべてを話してしまった。なんと思われてもよかった。私の中の曖昧な気持ちに形を作りたい、誰かに話して整理をしたい、という気持ちだったのだろう。親友は真剣に話を聞き、「自分の場合は、」と語ってくれた。それにひどく安心した。皆、通る道なのだ。平気な顔をして、幼い頃と何も変わっていない、楽しい毎日だという様子を見せながらも、知らないところで皆なにかを乗り越えてきていたのだろう。言葉にしてみないと、意外とそこに気づけなかったりする。

約4時間ひたすら喋り倒した。
それがとても楽しく、すっきりする時間だった。
さて、私が次に気になるのは「親友も楽しめたのだろうか」という点である。
親友も「楽しかったね」と笑った。
以前の私は「本当だろうか、私に合わせているのではないだろうか、気を遣わせているのではないだろうか」と気になっていたはずだ。
しかし、今は違う。過剰な謙虚や卑屈は何も生まない。生むとしたら、それは負の感情だ。「楽しかったね」という親友の言葉を私は素直に受け取り、「めっちゃ楽しかったね!」と私の素直な気持ちが伝わるように願いながら、何度もお礼を伝えたのである。親友と出会った頃の私はきっと、過剰なほどに気を遣い、しなくてもよい気を回していたのだろう。それに対し、今の私は素直になった。素直に発言し、素直に受け取る。それは昔に比べ、「気が回らなくなった」と捉えられることもあるかもしれない。しかし、学生時代のように、親友にとっても、今の、ありのままの私が、今後も付き合っていたくなるような親友であってくれたら嬉しい。
そんなことを考えながら、ちゃっかりプレゼントを受け取り、休日を終えた。

さて、明日からまた仕事である。
一筋縄ではいかない現実である。
素直に取り組んでいけたら、と、思う。

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