「水玉の午後」(ショートストーリー)
雨が降っていました。
うす暗い部屋の中、ぼんやりとした白い光が浮かんでいます。
その光に溶け込むように、一人の若い女性の姿がありました。
彼女の名前は、あかり。
『周囲を照らす明かりのように、温かくて優しい子に育つように』と、両親が付けてくれた名前です。
あかりは、机の上に置かれたパソコンのモニターをじっと見つめていました。
その表情は、どことなく沈んで見えます。
画面に映し出されたページは、もう何時間も真っ白なままでした。
彼女は、しばらくの間、挑むように画面と向き合っていました。
しかし、ふぅ、とため息をつくと、諦めたように体を背もたれにあずけます。
朝から降り続いていたはずの雨は、いつのまにか小雨へと変わっていました。
このままこうしていても、何も浮かんでくる気がしない。
あかりは、気分を変えるため、外に出かけることにしました。
半透明の傘をさしながら、路地裏の道を歩きます。
小さな雨粒が、頭上に広げたドームの上を、ぽつぽつと濡らしていきます。
こうしていると、まるで自分が、水中で暮らす生き物になったかのように感じられます。
『くらげになって、海の中を泳いでるみたい』
その思いつきが気に入り、あかりは、小さく微笑みました。
あてもなく、ただゆらゆらと漂うように進んでいきます。
その姿は、いつかの水族館で見たくらげの姿にそっくりでした。
青く透き通った体の色がとてもきれいで、しばらくの間、飽きずに眺めていたことを思い出します。
私もあんな風に、心のままに泳げたらいいのに。
そんなことを考えていた、その時でした。
手にしていた傘が、突然、上へと浮き上がりました。
慌ててつかんだ次の瞬間、大きな風とともに、体がふわりと宙に舞い上がります。
あっと思う間もなく、靴の先が地面を離れ、そのままぐんぐん上昇していきます。
気づくとあかりは、広い空の真ん中に浮かんでいました。
眼下に見える家々の屋根は、まるで模型のように小さく見えます。
周りを見渡すと、大小さまざまな水の生き物たちが、優雅に空を泳いでいました。
タイ、ヒラメ、コイ、金魚。
エビやくらげに、色鮮やかな熱帯魚たち。
目を凝らしてようやく見えるくらいの、小さなプランクトンもいます。
「綺麗」
それはまるで、空中に生まれた水族館のようでした。
空を飛ぶのも、こんなに間近で魚たちを見るのも初めてのはずなのに、不思議と怖いとは思いませんでした。
つかんだ傘に身を任せながら、流れるままに大空の旅を楽しみます。
魚たちとの空中遊泳を心ゆくまで満喫したあと、あかりは、自宅の屋根の上にそっと降り立ちました。
心地よい余韻に包まれて、胸の辺りがぽかぽかしています。
「あー、楽しかった」
また、みんなと一緒に泳ぎたいな。
そう思いながら傘を閉じたとき、周りの風景がゆらりと揺れました。
目を開けると、そこはいつもの見慣れた自分の部屋でした。
目の前には、書きかけのパソコンと、コーヒーの入ったマグカップが置かれています。
窓のほうに視線を向けると、雨は上がり、空には綺麗な虹がかかっていました。
「……そっか。もっと自由でよかったんだ」
あかりは、くらげのキーホルダーが付いた手帳と、お気に入りのペンをカバンに詰め込むと、いてもたってもいられず外へ飛び出します。
心を覆っていたはずの灰色の雲は、いつのまにかどこかへ消え去っていました。
今だったら、何にだってなれそうな気がして、そのまま海の中を泳ぐように駆け出しました。
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