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観劇の日

こんばんは。
今日はもう読書以外のやること全てを終えて文章を綴っています。
読書は1日の最後の楽しみなのでまだしてません。
今は森博嗣先生の「そして二人だけになった」を読んでいます。
久しぶりのミステリー、どきどきしながら読んでいます。


文章を書く前に、実家からとどいた瓜を食べました。
どういう瓜かはよくわかっていないのですが甘くて好きです。
昨日のうちに一口サイズにしてラップで3食分くらいに分けて冷凍しておきました。初めて冷凍した瓜を食べましたが想像よりしっかり凍って硬かった。笑



今日は先日行った観劇の話をしようかなと思います。

先日、DULL-COLORED POPさんの「岸田國士戦争劇集」を観劇しました。
学生の頃に、岸田國士「驟雨」の恒子を演じたのですが、そこから岸田國士の書く世界が好きで、今回Twitterでの告知を観て絶対に行くんだ!と思っていました。

すごく素敵でした。
戦争のお話なので、おもしろいとか素敵とかなんとなく憚られる表現ですが、舞台として、作品として、すごくおもしろかったです。
学生の時に初めて岸田に触れ、その後岸田國士戯曲集は手に入れたので「動員挿話」「かへらじと」は読んだことがあったのですが、やはり戯曲で読むのと、読み込まれて舞台の上で立体化されているのとでは印象が全然違う。印象というか、衝撃、心理、まさにその時代を目撃したという感覚。そういう生活がかつて実際にあって、その時代に生きた人々がいて、想像ではなく体験として残る、そんな舞台でした。

当日折り込みの御挨拶の文章を読んでから本編を観たのですが、どうにもその言葉がぐるぐるとして、苦しかった。全文を引用するのはよくないと思うのですが、
「どちらも岸田の中に生きた声としてあったわけだ。」
の一文の重みをずっしりと感じる時間でした。戦時を生き抜いた岸田だからこそ出た言葉。
 終戦から77年になる今年、戦争を経験している世代がどんどん減っている現状だからこそ、遺る作品から学ぶということは必要なのではないかと思います。
人は一つの側面では測れない。
だからこそ岸田の作品にも矛盾と思えるような言葉があったり、しかしそれがそれぞれに本音に聴こえるということ。自分がもしその時代に生きていたら、またはこの先の人生に、本当に起きて欲しくはないがそのような生活が待っているとしたら、私はどちらの言葉を多く吐くのだろう。
 動員挿話、数代のその時代にしては行き過ぎとも思える頑固な態度、かへらじと、志岐一等兵の覚悟、この国に生きる一人の人間として、彼らは「生き抜いて」いたなと思う。


私は戦争などあってはならないものだと思っているし、心の底から戦争など望んでいないが、もし、作品の中の彼らのような状況に置かれた場合、やっぱり私は数代のように愛する人の戦争行きを全力で止めるだろうし、また志岐一等兵のように覚悟して戦地に向かうのだろうとも思う。
そのように感じたのは、岸田の言葉が生むリアルな共感性というものが、説得力を持って板の上に乗っていたからだと思う。

観に行けてよかった。
素敵な時間をありがとうございました。

そして、素直に、岸田國士の戯曲でまた芝居がしたいと思った。
岸田の綴った言葉を、自分の言葉として発露したい。
誰かの心に届く、そんな作品を創りたい。



実はここ数日でまた私自身の環境に変化がありました。
嬉しいことも、苦しいことも、両方。笑
人生うまいことなってるよネ、と思っています。
全てを糧にして、前だけを見て、歩いて行こうと思っています。


あとは、筋トレを再開しました。


今日はこんなところで。
おやすみなさい〜
ばばい。


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