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バカ映画としてのシン・ウルトラマンと夢の終わり 2022/05/13 22:45

シン・ウルトラマンは残念ながら駄作であった。しかし、僕も今年で30歳になる人間である。幼稚園児の頃、「おおきくなったら何になりたいですか?」と聞かれたものだが、その「おおきくなったら」は今であり、場合によってはウルトラマンの映画を1本くらい任されていてもおかしくないのである。米津玄師だって31歳で主題歌を作っているし。だからシン・ウルトラマンが駄作であることの責任の一端は自分にもある。ウルトラマンの作中からセリフを引用して言うならば「いまに庵野・樋口が良いウルトラマンの映画を作ってくれるさ」と思っているのではダメなのだ。さらにウルトラセブンから引用するならば「良いウルトラマンの映画は我々自らの手で作らねばならんのだ」である(しかし、シン・ウルトラマンを見た後はこういった安易な引用をすることがほとほと嫌になるな)。

物語が壊れている

シン・ウルトラマンの脚本はひどい。これは『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の頃から引き継いでいる問題だが、どの登場人物も思いや状況をすべてセリフで説明しており、極めて軽薄である。ただし、シン・エヴァについては前編バカ映画として作ることにより観客を物語から開放するという豪快な方法が採られていたため、そのやり方には納得がいった。

一方、シン・ウルトラマンについてもひどい脚本であることを作り手は自覚しており、それを活かそうとする試みがあることは伝わってきた。それは2つのポイントから推察できる。

第一に、本作が決してリアリティラインの高い作品を目指していないことである。例えば、作品冒頭のネロンガ出現時に禍特対は自衛隊の指揮所から作戦指示を送るわけだが、周辺で児童が逃げ遅れていることが判明する。『シン・ゴジラ』であれば即座に攻撃可否をめぐり官邸がパニックになるシーンだが、あろうことか児童を発見した禍特対メンバーの神永新二が救助に向かってしまう。禍特対班長の田村君男も「頼むぞ」みたいな感じで神永を送り出す。いや、どう考えても作戦立案の担当官が対応すべき事態ではないだろう。少なくとも、現地に到着したばかりで地形にも詳しくない人間が走って助けに向かうより、避難誘導を担当している自衛隊員のうち児童に近い位置にいるものを向かわせたほうが確実であるに決まっている。

もちろん、リアリティラインが低い=作品の質が低いと言いたいわけではない。むしろこのシーンは、シン・ゴジラを見慣れた観客に対してシン・ウルトラマンにおけるリアリティラインの設定を効果的に伝えることができている。「今回はこの程度なんで、リアルっぽい表現が好きな人はゴメンしてね」と丁寧にお断りを入れてくれていることは加味しなくてはいけない。

第二に、原典である『ウルトラマン』においても、決して文芸的に質の高い脚本ではないことである。ウルトラマンは「地球を守る巨大な異星人」というそれまで国内はおろか世界でも類を見ない斬新なSF設定をベースに、サンフランシスコ体制下で戦後の平和国家を生きる日本人というストイックなモチーフを落とし込んだことが高い評価を受ける作品であり、各話の物語展開そのものについては(もちろんピンポイントに優れた点は数多いものの)所詮子供向け番組のそれである。むしろ、「幼稚な子供向け番組のフォーマット」だからこそ時に本質を射抜けたと評する方が正しいだろう。

シン・ウルトラマンにおいても、ウルトラマンにおけるこの奇形的な構造をリスペクトし、必要以上にハイブローなものを持ち込まない意識を徹底していることが読み取れる。何のことはない、タイトルにも「空想特撮映画」と記されているではないか。

が、問題はこれらのポイントが決して作品の出来に肯定的な効果を及ぼしていないことだ。シン・ウルトラマンは荒唐無稽な物語である。荒唐無稽だからこそ描けるもの、という魅力に繋げてほしかったのだが、残念ながら全体的にシン・ゴジラをなぞったような表現が続くために実現できていない。例えば分析官の浅見弘子は禍特対で最も自由で活発なキャラクターだが、彼女が火の海に飛び込んだりビルから飛び降りたりするようなシーンはない。原典におけるモデルのフジ・アキコ隊員が、休日の買い物中に雨が降ったからといってジェットビートルで傘の配達を頼んだような「非日常が日常と接している世界」の鎹になっているわけでもない。

センス・オブ・ワンダーにつなげるわけでもなく、キャラクターの超人的な身体・意志を表現するわけでもなく、現実のシミュレーションとしての精度も下げている。つまり、シン・ウルトラマンにおいて脚本の内容がひどいことは完全に作品を失敗させる原因になっているのだ。

僕は「特撮愛」みたいな、どうしようもない言葉でこの作品を褒めたくありません

一方で、極めて高い頻度で登場するのが過去のウルトラシリーズから引用した表現である。冒頭のタイトルバックからウルトラQのオマージュであり、禍威獣なり外星人も原典のエピソードを散りばめながら再構成している。さらには当時の児童書で伝えられた独自の設定や【誤情報】までも取り込んで物語を紡ぐ姿勢には、思わず笑みがこぼれたのも事実である。

が、だからといって、それによってシン・ウルトラマンが優れた作品になったのだろうか。むしろ引用することこそが作品の幅を縮め、残念ながら「内輪受け」以上のものを生み出せなかったことを浮き彫りにしているように感じる。

端的な例として、ザラブ扮するにせウルトラマンにウルトラマンがチョップを叩き込むシーンを挙げたい。このシーンは当たりどころが悪かったのが、むしろチョップを叩き込んだ側のウルトラマンが手を痛めて苦しむという描写がある。言うまでもなく、これは原典のウルトラマン18話における戦闘シーンのハプニングをそのまま再現したものだ。が、このシーンの直前パートにおいてウルトラマンはガボラと戦っており、そのドリル攻撃を平然と手で受け止めている。どう考えたって、当たりどころの悪いチョップの痛みよりもドリルを手で受け止めた痛みのほうが激しいだろう(ガボラ戦のウルトラマンは手の表面にバリアー膜でも張っていたのだろうか?だったらチョップする手の側面にも張っておけよという話である)。すなわち、平たい言葉で言えば「世界観の統一も出来ていない」作品である。

あるいは、なぜメフィラスはデモンストレーションの対象に浅見を選んだのか。別に、禍特対に縁もゆかりもない人物を巨大化させても「人類では太刀打ち出来ないほどの科学力である」というメッセージにたどり着いただろう。むしろ、万が一にもベータシステムの所在を探られる原因になり得る浅見は絶対に避けなければいけないだろう。どうせ全身が超頑丈素材なんだから誰を巨大化させたって自衛隊の武器では死なないだろうし。これも、ウルトラマン33話の巨大フジ隊員をやりたかったという意図は伝わるものの、それによってストーリーにほつれが生まれている。

引用するのはいい。そもそも『シン・ウルトラマン』と銘打っている時点でウルトラシリーズを引用するのは至極当然だ。だが、それはまともな脚本の合間に込めることで作品のグレードを向上するためのものではないだろうか。「特撮ファンを喜ばせて、それでお客さんが増えました」は経済の理屈である。そんなものは(まさしく、シン・ウルトラマンの上映前に流れていたうんざりするほどワンパターンな構成の予告の)凡百の商業映画に任せてくれればいい。

いや、むしろ今になって気づくのは、残念ながらシン・ウルトラマンこそが凡百の商業映画に過ぎなかったということなのだが……。

薄すぎるキャラクターたちを見て何を思うか

なぜ、これほどまで残念な脚本になってしまったのか。その根本的な原因は、各キャラクターの掘り下げが出来ていないことだろう。どのキャラクターも書き割り的で深みがなく、単に物語上の役目をこなしているだけに見える。

例えば、主人公の神永という男に観客は思い入れを持てるだろうか。彼は物語冒頭で死亡してからはウルトラマンがその姿形を模倣してすり替わっているため、協調性のない奇人として描かれる。頻繁に職場を抜け出すわ独断で行動するわで非常に迷惑なのだが、そもそもウルトラマンがすり替わる前から奇人だったので周囲からは特に気にされていないらしい。なんだそりゃ。一応、言い訳的に「実は彼は切れ者で、能力は非常に高いからこれで良いのである」的なことがセリフで紹介されるが、そんなの『こち亀』の両津勘吉がマンガになっていない部分で犯人を多数検挙してるからクビにならないのだ理論と同じである。せめてウルトラマンとすり替わる前に「神永の単独行動のせいでトラブル発生→しかし実際は神永のナイス判断で禍特対のピンチを救っていました」というエピソードが作中に描かれなければ、観客は神永というキャラクターをスムーズに受け入れられないだろう。ぶっちゃけ多くの観客からすれば神永は「大して活躍しないし、ヒマだから子供を助けに行ったら石に当って死にました」というどうしようもない印象しか残らない人物である。

神永にすり替わったウルトラマンもおかしい。地球人のことを調べるため職務中に広辞苑を速読するウルトラマン。コーヒーは自分の分しか淹れない。もちろんこの辺は(禍特対のメンバーが誰も突っ込まないのも含めて)ギャグであり、「明らかに不審なハヤタ隊員をあまり怪しまない科特隊」のオマージュなのだが、そのせいで禍特対という非常に重要な人物が所属する組織がヤバい人の集まりに見える。いや、分かるよ。「本当にコイツらに日本の重要課題を任せて大丈夫なのかよ」と思っちゃう組織なところも引用しているの、分かるよ。分かるけどさ、それの何が面白いんだよ。田村班長も無能にしか見えないよ。おかしいだろ、自分の部下同士をバディに組ませといて、片一方が職場放棄してどっか行ってるのを管理できないの。お前は何のための管理職だよ。浅見かわいそうだろ。「個性と自由を重んじる」的な考えだってキレイに伝わらないよ。ガバナンス効いてなさすぎるとしか思えないだろ。

そして個人的に非常に気になったのが滝明久である。言うまでもなく彼は原典におけるイデ隊員の役割であり、ラストシーンに繋がる重要なキーマンなのだが、本当に軽薄な扱いをされていて、これに関しては純粋に腹が立った。彼はウルトラマン37話よろしく人間の無力さに絶望して職場を放棄するわけだが、原典であるところのイデ隊員はもう少し自力を信じてウルトラマンという存在に立ち向かっていた。

別に、「同じことをやれ」と言っているわけではない。だが、イデ隊員は23話でも37話でも常に人間側の事情とウルトラマンという存在に板挟みになりながら技術開発に力を尽くして状況を打破し、だからこそ現実の厳しさに翻弄され、「我々科学特捜隊も、ウルトラマンさえいれば必要ないような気がするんだ」と口走ってしまうキャラクターではなかったのか。だからこそ小市民である我々が感情移入し、自分を重ね合わせ、幼い頃に見たウルトラマンを何年経っても見返す原動力になってくれたキャラクターではなかったのか。それにひきかえ滝は、言っちゃあ悪いが何もしていない。彼が禍特対の屋台骨として機能し、それでもウルトラマンの存在にかなわないからこそ職場放棄し、そこから復活するならばカタルシスが生まれる。どうしてそういったキャラクターとして描かなかったのが、甚だ疑問である上に、今となってはとても悲しい。

彼らの存在が軽薄であるということが、シン・ウルトラマンという物語を包む世界観への興味を阻害していることは言うまでもない。物語の指針となる主要人物たちの描写が破綻している作品を、どうやって楽しめばいいのだろうか。

樋口真嗣に対する夢と現実

樋口真嗣という作家についても触れなければいけないだろう。彼への世間的な評価は「どの監督作品もビジュアルは優れているけれども脚本がダメ」というものが多く、僕もおおむね同意である。樋口はビジュアルの人なのだ。だから、脚本を責めても仕方がないのである。

では、シン・ウルトラマンのビジュアルはどうだったろうか。非常に少ない予算の中、努力したのだろうなという気配は感じ取れた。本作は特報・予告の時点で同じシーンを活用していてもバージョンによっては微妙にテクスチャの質や色味に変化があり、リアルタイムにさまざまな変更が加えられていたことを感じさせる。もちろん没入感の高い映像を作るためにはこのような細かいパラメータ調整作業が必要不可欠である。

しかし、(少なくとも僕が)樋口の描くビジュアルに求めているものはそこではない。樋口のビジュアルとは「こんな景色、想像もできなかった!」と思わせる迫力とスピード、そして凡庸な人間では絶対に眺めることのできないアングルからの風景である。例えば、樋口がコンテを担当した『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』における第8の使徒戦には、筆舌に尽くしがたい魅力がある。エヴァ各機の重さと速さ、「人類と巨人が手を組んだらどんなダイナミックな景色が眺められるんだ?」を体現したような緊急コース形成の鮮やかさ。こういうものをウルトラマンというモチーフを通じて「そうか!そう見せてきたか!」と思わせてくれることを期待していたのだ。

だが、残念ながら、シン・ウルトラマンで描かれる映像にこのような魅力はない。ビルの間を縫って飛ぶウルトラマンとか、川崎の工業地帯越しにゆらいで見えるゾーフィとかにその片鱗は見えるものの、これらはすべて僕が過去にアニメや特撮で見たことのある景色の縮小再生産としか思えなかった。

シン・ウルトラマンという作品に対して、僕が一番期待していた部分は樋口のビジュアルである。その部分が手垢の付いた残念な出来であったことが、何よりも自分の中におけるこの作品の価値を大きく下げている。

過去の遺産を食いつぶして

一方で、シン・ウルトラマンという作品は部分的に観客のテンションを大きく上げる要素が詰まっていたことにも触れる。ウルトラQのタイトルバック……と思わせてシン・ゴジラのロゴという演出には冗談抜きにチビりそうになったし、ゴメスだマンモスフラワーだペギラだとゴージャスに畳み掛ける冒頭シークエンスには震えるほど興奮した。飛び人形のまま回転するウルトラマンとか、ネロンガの電撃を胸で受けるウルトラマンとか、Aタイプの顔シワシワなウルトラマンとか、そりゃあこのへんのシーンも小さくガッツポーズしながら見た。

だが、見終わった後に感じる寂しさは何だろうか。そう、シン・ウルトラマンの興奮する部分は、全て過去作の焼き直しに過ぎないのだ。CGの技術は上がって、いくぶん表現は自由になっただろう(まあ、その進歩したCGで飛び人形を再現してるってのはなかなか面白い皮肉だが)。しかしシン・ウルトラマンが独自に展開した新たな発想は、驚くほど心に響かなかったのである。シン・ウルトラマンはウルトラシリーズとシン・ゴジラの威を借る狐だ。それは例えるならば、メフィラスが後ろ盾につくことをうっかり受け入れてしまう作中の日本政府のようなものである。

だから、この映画は過去にしか魅力がない。じゃあ、ウルトラQなりウルトラマンなりシン・ゴジラを見ればいいじゃん、という話になる。

そういった意味で作中で最も興奮したシーンのことを思い出すと、まさにシン・ウルトラマンの限界を象徴しているように思える。僕が最も興奮したのは、シン・ゴジラの赤坂秀樹(まあ、諸般の事情により役名は「政府の男」なのだが)が再登場したシーンである。再会できた喜びと驚きで「赤坂先生!」と叫びそうになった。「日本にはまだ赤坂先生がいるぜ~!メフィラスの野望もここまでだな」と思った。再登場は公開まで完全に伏せられており、嬉しいサプライズだったことは間違いない。単に観客を喜ばせるだけではなく、「シン」シリーズのマルチバース的展開を決定的に宣言した意味でも大きな効果を発揮したことであろう。

だが、裏を返せば、赤坂は「絶対にシン・ウルトラマンの中では作り出すことの出来ないキャラクター」であるとも言える。国の状況を的確に判断し、時に国民にとって受け入れがたい条件であっても最大公約数的な利益のために決断する。周到な根回しと強力なコネクションで主人公を支え、時に越えるべき壁として対立する。シン・ゴジラにおいて赤坂はそういうキャラクターである。シン・ウルトラマンは、自力でこんなキャラクターを作ることはできない。だから、体よくシン・ゴジラから「頂いてしまう」。そのプライドのなさに気づくと、本当にこの映画のことを考えるのが嫌になる。

シン・ゴジラは、公開当初はゴジラシリーズとエヴァンゲリオンシリーズの威を借る狐として観客に受け止められた。しかし公開が続くにつれ高い評価を得てその見立てを覆し、ゴジラとエヴァを逆に食うことに成功した作品である。シン・ウルトラマンにその力がなかったことが、本当に残念でならない。

おわりに

最後に、本来ならば第一に触れなければいけなかった部分について語ってシン・ウルトラマンの話を終わらせたいと思う。この作品のテーマは「安易な誘惑や思想に負けず、自力と対話を信じられるか」だったはずだ。それは政府周辺のやり取りをはじめ、光の国の人々の行動を含めて徹底して描かれている。また、奇しくも現実の世界情勢が「国際的な連携が言葉通りの意味を発揮せず、それどころかトラブルの原因にすらなり得る(もちろん、無いよりは遥かにマシなのだが)」という事態に直面しており、テーマを補完するかのように機能していることも興味深い。

が、こんな状況にあっても、このテーマが観客に伝わっているとは微塵も感じられない。そりゃあそうだ。このバカ映画を真剣に見る人はいない。この映画を見る人間の興味があることなんて、割り勘するメフィラスとかウルトラマン神変とか長澤まさみのケツとかなんだから。だから、今になっては「どうせドンパチとWikipedia的知識のパロディを見せたかったんだからさー、ポリティカルな話でゲタ履かせるのやめたらよかったのにねー」としか思わない。

ともかく、シン・ゴジラのメソッドは、少し手を加えただけで上手く機能しなくなることがよく分かった。仕方がない。新しいことに挑戦して、失敗しただけのことである。むしろ、面子だけを見て、口を開けて待っていれば美味いものを入れてくれるものだと信じていた僕がバカでした。あなたがたが今まで作ってきてくれたもののおかげで今日まで楽しく生きることができました。今までどうもありがとうございました。僕もがんばります。

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