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手放すことで満ちるものはなに

(エッセイ)

初めてこの曲を聴いたのはちょうど二ヶ月前だった。
その晩、一日中降り続いた三月の雨は飽きることなく街を洗いつづけており、街角のカフェの橙色の明かりが大きな窓から漏れ出でて、濡れたアスファルトを照らしている。
私はそれをぼうっと眺めながらカフェでだらだらブラウジングをしていたのだが、仲のいい先輩が今度好きな人と観に行くという映画について見ていたら予告編がとても良いので主題歌をフルで聴いてみたくなり、「へー藤井風の新曲なんだー」と何の気なしに再生ボタンを押した、という具合だった。

ヘッドホンから曲が流れはじめ
最初のピアノの一小節で、
もっと言えば、一番最初の和音で、
なぜか私は鳥肌立っていた。

自分でもびっくりして思わずイントロの途中で停止ボタンを押してしまう。
あれ、なんでだろう。これはやばいかもしれない、と思う。

ひと呼吸して気持ちを整え、もう一度再生ボタンを押す。
あとはもう、包み込むような美しいピアノと、そこから広がっていくメロディーに自分をゆだねるだけだった。


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Xで見かけたこの曲についてのある紹介文をすごく良いと思ってから、それについて時折考えます。

〇藤井風「満ちてゆく」―手放し続ける人生の中で澄みきる確かな愛

生きとし生けるものはすべて等しく、いつか光の向こう側へと向かっていく――。  (中略)
今作で描かれるのは「手放し、満ちていった愛」のあるべき姿だ。

4月12日音楽Webマガジンmusit公式Xより、引用元の記事は安藤エヌ・著


手放すことで満ちるもの、それはほんとうに、愛なのだろうか。
私には、それは愛だけではない、もっと大きなもののようにも思える。

けれど、この問いについて語ったりすることは今の自分にはできない、と思う。家庭を持ったことも、ものすごく大切な人を離別によって失ったこともまだないからだ。私が経験してきたことにはあまりにも限りと偏りがあり、そして人生はまだ長い。

せいぜいちょっと恋愛的なことをしたことがあるくらいだが、藤井風はラブソングを作ろうとしてこの「満ちてゆく」を書き上げたそうなので、私も自分のうすい恋愛経験からぼんやりと考えたことについて書いてみようと思う。

私が大学生になって初めて付き合った人は、持っている愛情の絶対量がとても多い人だった。大きな熱量で人のことを好きになって、とても大切にできる人だった。
自分の保身ばかりで「好きか分からない」とかよく分からないことをぬかす私にも根気強く向き合ってくれる懐の深い人だったが、「この人、私のことなんかをこんなに好きになれるってことはきっと他の人のことも同じようにすごく好きになれるんだろうな」と私は思っていた。
当たり前である。当たり前なのに、私はそのことが、好かれている最中からなぜか悲しかった。本当は、そんなどうしようもないことにいじけずに、だからこそ相手がいま自分を見てくれていることを大切にするべきだったのだと思う。結局それが出来なくて別れてしまったのだけど、そのあとの切り替えは、その人の方が私より早かった(たぶん)。私は、その人が言ってくれていた言葉に半信半疑の振りをしておきながら、なんだかんだ「本当だったらいいのに」と思っていたから、新たに彼女が出来たらしいことを知って「あんなこともこんなことも言ってたのにもう私のこと本当にいいんだ……」と、なんとも自分勝手なことに悲しかった。やっぱり諸行無常なんだ、そんなこと知ってたはずなんだけどな、って。

誰かのことをすごくすごく好きになって、どれほど「他の誰にも代わりがきかない」と強く思っていたとしても、私たちは必ずまた好きな人に出会えるようになっている。そして、その穴は他の人でも埋められることに気付く。
そんな当たり前のことをこの時はじめて、実感をもって知ったのだった。

私はいつも、そのことをほんとうに「救い」だと思う一方で、「残酷」だとも思ってしまう。誰かを想ってどれだけ大きな穴がぽっかり空いたとしても、それをほかの人で埋めることができるというのは、とても素晴らしいことなのに、とても寂しい。

でも、お互いを手放して軽くなったからこそ出会えたものが、いまの私と彼を満たしている。
寂しいけれど、前に進むことのすばらしさも、強さも、確かにものすごい。

私はまだ、理論でしか知らなかった「そういうものだから」の数々を、少しずつ体験して受け入れていく段階にある。

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また、私には、「満ちてゆく」のMVを観て思い起こした小説がある。
それは、瀬尾まいこさんの『そして、バトンは渡された』である。

2019年の本屋大賞を受賞して映画化もされた作品なので、読んだことがある方も多いのではないかと思うが、「満ちてゆく」は私に本作のラストを思い起こさせる。

それは、主人公・優子の結婚式で、彼女が父親の森宮さんとバージンロードを歩く場面である。森宮さんは、ある日突然、元交際相手の娘だった高校生の優子の父親になることになり、「親子とは何か」という問いにもがきながら優子に向き合ってきた。ラストシーンでの彼の心の台詞が私は大好きで、よく読み返す。


 どうしてだろう。こんなにも大事なものを手放すときが来たのに、今胸にあるのは曇りのない透き通った幸福感だけだ
 「笑顔で歩いてくださいね」
 スタッフの合図に、目の前の大きな扉が一気に開かれた。
 光が差し込む道の向こうに、早瀬君が立つのが見える。本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時だ、あの日決めた覚悟が、ここへ連れてきてくれた。
「さあ、行こう」
 一歩足を踏み出すと、そこにはもう光が満ちあふれていた

瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』,2018年,文藝春秋, p372


この場面における「手放す」とは、「大切な存在を手放す」ことだ。娘が自分のそばを離れることはとても悲しいことなはずなのに、胸に満ちるのは清々しいほどの幸福であり、森宮さんは「本当に幸せなのは自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時」なのだと気づく。彼の目の前には光が満ちている。
一方で「満ちてゆく」の歌詞やMVのなかで描かれる「手放す」という行為の対象には、「大切な誰かの存在」のみならず、「生きていくなかで避けがたく失ってしまうあらゆること」も包まれているように思える。それは、『そして、バトンは渡された』よりも広い範囲を指す。

両者に共通しているのは、「それが大切なものでもそうでなくても、すべての物事には終わりは来るし、遅かれ早かれそれを手放す時はくる」ということ。
すべての記憶をとどめておくことはできないし、誰かをずっとそばにとどめておくこともできない。
取りこぼし、守りきれないものがあり、必ず失うものがあり、いつかそのことも忘れて、それでも生きていく。


*

いつからか「アイドルになりたい」なんて間違っても思わなくなったみたいに、今持っている夢も手放してなかったことにする日が来るのかもしれない。あまりそう思いたくないけど、きっと来るのだろうと分かるくらいにはもう幼くない。

すでに、置いてきたものはたくさんある。
ということは、私の周りにいる大人たちは、どんな苦い思い出を通って、どれだけの・どんなものを手放して、いま目の前で笑いながら優しさを分けてくれているのだろう。
お互いに、想像もつかず知り得ないものを、私たちは心の奥に抱えている。

確かなことは、
私たちが手放し続けることで空いた場所に入ってくるものがあり、それらがまた傷を癒し、喜びや安らぎを生み、心を満たしてくれるということ。
澄み切って確かになっていく愛もあれば、新たに生まれる愛もあるだろう。

受け取っては手放すことを繰り返す人生の中で、
誰かを傷つけてしまうこともあり、誰かを満たすことがどれほど難しいかを、私はこれからきっと知っていく。
それでも、私も誰かになにか光るものを渡せたらいいなと思う。


「与えれば与えるほど満ちるもの」とは何か。
私たちが与え合うために、与えることを惜しまない人になりたいと、切に願う。


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おわりに

「愛を終わらせない方法、それはなんでしょう?」

映画『四月になれば彼女は』より

予告編で最も印象的だった台詞です。
それは一体何なのかとても知りたいけれど、日本に帰るのがまだ先なので、残念ながら映画を観ることはできなさそうです。
なので私はまだその答えを知りませんが、映画をご覧になった皆さんは、その方法についてどう思いましたか。どんなことを考えましたか。
よかったら教えてください🐋

読んでくださりありがとうございました。
またお会いしましょう🔖

(※使用画像はすべて、藤井風「満ちてゆく」MVより)


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