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出かけることが億劫

 別に出かけることが嫌いなのではない。ずっと部屋の中にいては体が腐ってしまうことも重々承知だし、陸上もやっているので体を動かすことはとても好きだ。出かけた先で楽しいことができること、たくさんの知らないことの発見があることも知っている。人生の中で、遠くとも近くとも数えきれないほど出かけてた経験を持った上でこれを綴っているので、これが表面上ではなく心からそう言っていることも理解されたい。おおかた出かけた先で後悔することはない。何も収穫がなかったとしても、出かけたという事実にも意味があり、日々自室に篭ってしまう自分が、外の空気を吸うだけで多少なりとも心をリセットして、よろずのことも効率的にこなせてしまうことも知っている。
 何にも縛られることのなかった大学1、2年の時。金曜日、部活もなく授業が午前中で終わったらしばしば江ノ島に向かった。平日の江ノ島はそこまで混雑していなかったので、首都圏の喧騒を離れ自然に触れるのに恰好の場所だった。江ノ島の長い階段を上り、心地よく汗をかいて、潮風を浴びるとともに、海を見ながら生しらす丼を食べる。まだ首都圏に引っ越してきてすぐの頃は都会のどこに行っても人がいて、街も道路脇の嘔吐の跡や缶ペットボトルの捨てられた様子で汚らしく、喧騒と排気ガスに酔い、外に出る度にストレスが溜まった。自分のスペースが確保できるところが学生寮の自室しかないと思ったらさらにストレスだった。このような考えに一度至ってしまうと、家にいても外にいても窮屈な気持ちで、3ヶ月に1回は帰省して「やっぱここだわ」と気分転換したものだ。しかし帰省だけでは拭えないストレスは江ノ島に行くことによってまたリフレッシュするのだ。陸上選手は、自分の体をしっかり日常的にケアしなくてはならず、その為に自分でストレッチするだけでなく整体や鍼治療院にもこまめに通う。そうしないと怪我してしまうからだ。僕の心も状態もまさにそれと同じようなもので、こまめに自分の心に溜まった「凝り」を解さないと、どうにかなってしまう。

 しかし、最近はどうも自発的に出かけることが少なくなってしまった。もともとインドアな性格をしているのかもしれないが、インドアと名乗るにはあまりに家で落ち着いて過ごすことができない。アニメを見るにしても、ちょっと歩いてみたり、筋トレしてみたり、作業の傍らだったりしないと落ち着いて見てられない。だけど外に出るのも億劫。
「外に出たら帰ってこなくちゃいけないじゃん」
行ったら帰ってこなくちゃいけない。出かける時の労力は、行った道を辿って帰ったとしても、行った距離は、使った労力の半分しかない。電車の旅なら、一度使った路線を使わず別の路線を使うことによってスタートした駅に戻ってくることはできるだろうが、大抵のお出かけはそううまくはいかない。行きたいところがあり、そこに最短ルートで行った場合、帰る時はそれより精神的に短い時間で帰れることが少ない。もっと先へ行きたいのに、帰ることを思い出すと諦めてしまう——。
 料理を思い出してもらえば良いが、たくさんの料理をすればするほど片付けしなくてはならない鍋や皿が多くなり億劫になる。出かけることもこれと同じようなもので、それよりだったら出かけないでいようという諦めの姿勢に変わってしまう。
 一体何が俺をそうさせてしまったのだろうか。今はキャンパスに行くこともなくなって江ノ島にふと出かけることもなくなった。でもきっとコロナもなく普通にキャンパスライフを送っていたとしても、今の私が江ノ島に行くことがあっただろうか。ふと放浪したくなるのに、帰ることを思うと、果たしてそれが放浪なのだろうかと考え、やる気もなくなってしまう。
 彼女や友人に誘われて行けば十分楽しめるし、何も後悔はない。これは先ほど述べた通りだ。待ち合わせの時間を決めることによって出かけることに臆病になる自分の退路が断たれる。行く途中も楽しい、行った先でも物事を共有できて楽しい、帰る時もそろそろ帰る頃合いだと見切りをつけることができ、思い出を語らうこともできれば感傷に浸ることもできる。最高の旅ではないか。だが一人の旅もしたい。憧れる。だが、億劫になってしまうのだ。
 今は暑いから外に出るのもなお億劫だ。

 なんだか、ここまで綴ってきたものの、それの原因が突き止められないし、ただの屁理屈になってしまった。
 億劫になることは、出かけること以外にもあった。言い訳をつけてはその機会を失ってきた。考える癖はついたが、考えに癖がついてしまった。もう少し考えることをやめてみたいところだ。バカになってみたい。

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