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掌編「そそぐ」

 名前も知らない猫目の彼女に好意を抱いた。絵に描いたような猫目で、視線は僕の目の奥に注がれているかのようだった。
 猫目の彼女は、偶然入ったドーナツ屋さんでアルバイトをしていた。注文したオールドファッションを2個お皿に盛り付けて、熱いコーヒーを淹れてくれた。ドーナツとコーヒー代を彼女に渡し、僕はお釣りを受け取る。彼女は僕の眼を綺麗な猫目で見続けながら挨拶をした。
「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ。」
「いただきます。」
僕は感謝を込めてそう告げて軽く頭を下げた。
 ここのドーナツ屋さんはコーヒーがいくらでもおかわりできるらしく、30分くらいの間隔で店員さんがおかわりを聞きに来てくれた。僕が買ったオールドファッションはチョコ付きとチョコ無しで2個お皿に盛られている。チョコ無しをひとかじりしてから、唇を硬くして湯気の立っているコーヒーに口をつける。僕は持ってきた本を読み始める。主人公がウサギに言われた。「世界の終わりが、そこで見ている」と。
 チョコなしを半分くらいゆっくり食べ終わり、コーヒーも冷めて二口くらいがカップに残った頃。
「コーヒーのおかわりいかがですか?」
猫目の彼女がコーヒーの入ったポットと、ミルクや砂糖の入ったバスケットを手にかけてやって来た。彼女は僕の真正面ではなく斜め前に立ちポットを大切そうに両手で抱えている。
「おかわりお願いします。」
僕がコーヒーのおかわりをお願いすると、彼女はカップを手に取りコーヒーを注いで渡してくれた。湯気の立つカップを受け取りお礼を言う。
「ごゆっくりどうぞ。」
と彼女が笑顔で答えて、店内のお客さんにコーヒーのおかわりを伺いに行く。浅めに被ったキャップの後ろから、結ばれた髪の毛が少揺れている。僕は彼女がコーヒーを淹れに来てくれるなら何杯でもコーヒーを飲もうと考えた。そして注ぎに来てくれた時、少し会話をしてみようと思った。僕は本の続きを読みながら残りのチョコなしを食べた。
 ニ杯目。猫目の彼女は一回目と変わらない声で言う。
「コーヒーのおかわりいかがですか?」
僕はおかわりをお願いした。カップのコーヒーは冷めて少なくなり色も薄くなっている。僕は彼女がコーヒーを注いでいる時に話しかけてみた。
「忙しそうですね。」
彼女は笑顔のまま少し間を置いて頷いた。
「いつもここで働いてるんですか?」
「はい。」
彼女は湯気の立ったコーヒーを渡してくれた。コーヒーの色は濃く見える。想像以上に会話が続かなくて少しだけ恥ずかしくなりながらも、僕は気を取り直して本を読む。酔っ払った主人公は月明かりの高架下で誰かの描いた落書きを眺めて涙をこぼした。
 ドーナツの穴を眺めた後、チョコ付きをかじり始めた。チョコレートは甘かった。チョコが指につかないように持って食べた。コーヒーを口に含み甘みを洗い流す。三杯目は違う女の子がきた。僕はコーヒーのおかわりを頼み本を読み進める。チョコ付きを3分の2くらい食べきると、コーヒーのせいもあってかお腹もだいぶ溜まってきた。
 四杯目のおかわりがきた。ポットを大切そうに抱えていたのは猫目の彼女だった。彼女は少し俯いている。
「コーヒーのおかわりいかがですか?」
「お願いします。」
僕はコーヒーカップを前に出す。彼女はカップにコーヒーを注ぐと眼を伏せたままカップを机に置いた。僕がお礼を言うと、彼女は微かな声で喋る。
「さっきは少し忙しかったです。」
曇った表情のまま、他の席に行ってしまった。僕はお腹いっぱいになりながらもコーヒーをちびちびと飲み、チョコ付きをかじる。本を開くと主人公は隣家を燃やしていた。
 僕はコーヒーで溜まったお腹に、残りのチョコ付きを放り込む。カップには、もう湯気が立っていない薄くなったコーヒーが残っている。残りを一気に飲み込むと、コーヒーは酸化して少し鉄っぽい味がした。僕は気持ち悪くなる。コーヒーに添えられた紙ナプキンをみて、僕はボールペンを取り出しノックする。11桁の数字を描いた。僕は読んでいた本を閉じ、荷物と紙ナプキンを持ち退店の準備をする。店内を見渡すと思いの外賑わっていた。僕は猫目の彼女はコーヒーのポットを大切そうに持ちながら席を回っている。彼女が僕の席に来た時に僕は紙ナプキンを手渡した。
「もし良ければ、貰ってください。捨てても構わないので。」
彼女はきょとんとした表情で紙ナプキンを受け取り眺めた。少し間を開けて彼女は喋り出す。
「コーヒーのお代わりいかがですか?」
彼女の視線は空になったコーヒーカップに注がれていた。
僕はコップを差し出して五杯目のおかわりをお願いすると、笑顔でコーヒーを注いでくれる。それから僕はコーヒーを飲み終えて退店した。
 僕は家に帰りすぐトイレに入る。飲み過ぎたコーヒーを口からもどした。胃が少し緩む。黒色の液体が浮かぶ。苦くて、そしてほんのり甘い。涙目になりながら。黒い液体に視線を注ぐと、僕は愛を感じた。

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