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コンタクトシート、炎の音

むかし撮ったフィルムの写真を見返す機会があった。
ピンぼけしていたり露出がうまくなかったりして良い出来の写真は少ないのだが、やはりこうしてある程度時間を経て掘り出す写真はいいな。
写真はフィルムごと、つまり37枚ごとにフォルダに入れて整理しているが、そのひと揃いで見るのがいい。
構図違いのものが並んでいたり、時にはひとつの写真と次の写真のあいだでは季節が変わるほど一本のフィルムを使い終わるのに時間がかかっていたりもするが、でもそのひとつひとつのコマは全部、確かに、なにかをそこに見たくてシャッターを切ったその瞬間だ。
選り抜かれなかった「あいだ」に見たものこそが、こうして時間を経たあとでは面白いと思える。
これまで撮ったフィルム写真を、コンタクトシートとして見せるサイトを作りたい、とこれまで何度か考えた。
方法を模索したりもしてみたけれど、色々と考えているうちにほんとうに自分がそれを「誰かに見せたい」のか毎回分からなくなって、そもそも誰がこれを見たいものか、という気持ちになって、手を止める。

本当に写真を撮らなくなった。
日本にいる時、私の周りには写真を撮る友だちが多くいてどこかに遊びに出かけるとみんな必ず一眼レフとか中判を胸に下げていた。
話したり、ご飯を食べたり、なんだろう、どういったタイミングなのか、色んなタイミングでシャッターが切られた。
そういう風に撮られた写真はみな、胸の中がふわりとほどけるような、締め付けられるような、いい写真だった。
一方で私はそういう風に写真を撮ることが得意でなかった。
けんめいに頑張ってここだ、とシャッターを切るが、みんなみたいに素敵な写真が撮れたことがない。
きっと私は人をきちんと見ることができない人間なんだ、自分のことばかりを考えるエゴの強い人間だから人が撮れないんだ、と自分の嫌な本質が表れているのを感じてその都度かなしくなった。
動的なものの瞬間を撮ることは苦手で、しばらく見つめて、ものいわず語りかけ合えるようなものしか撮れなかった。
でもそれだって、相手は動けないから私に撮られているというだけで、やっぱり私のエゴには違いない、という思いを胸から拭うことができない。
今はもう、少し前のようにはそれを悲しいとは捉えなくなったけれど。

残しておきたいなと思うことはたくさんある。
今はあらゆる個人体験や視線がシェアされて溢れているので、そういう場所でその景色を共有したいのかどうかはちょっと分からないけれど、でもそうだとすると自分のこの「見たものを自分のなかだけでとどめておくことができない」という奔流をどうしたらいいのか、と考えたりもする。
誰にも見せられることのない写真というのは一体なんなのか。
自分のためだけの記録だとしても私はそんなに頻繁に自分の過去を辿るようなタイプでもない。(膨大な日記だって読み返しすらしない)
残しても見てくれる人がいるわけでもないのだ。
よほどいい写真ならヴィヴィアン・マイヤーのようにいつか知らない誰かが見てくれるかもしれないけれど、そういうものでないことは自分が一番よく知っている。

私が見たものや感じたものや考えたことは、そのほとんどは、わたしのなかだけにとどまって、いつかわたしといっしょに無になるのだ。
悲しんでいるわけではない。
ただ途方もないだけ。

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