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●2021年6月の日記 【下旬】

6月21日(月)

子どもを連れて幼稚園に行くためにアパートの階段を下っていると、2階に緑色の背中をした虫がいた。都合よく持ちやすい小枝に乗っていたから、持ち上げて「ほらカナブンだよお」「カナブンきれいだねえ」と興奮して子どもに紹介したが、コガネムシである。途中で気がついても、子どもはすでに「カナブンさん…」と考え深げにつぶやいている。カナブンでいこう、今日のところは。
小枝ごとカナブン(仮)を持って自転車を走らせるあいだカナブン(仮)は飛び立たなかった。しかし幼稚園の門をくぐる寸前で子どもが持った枝からブゥン…と飛び立っていった。「あっ…」と思ったが、子どもは「カナブンさんばいばーい」ととくに未練も見せず、虫が姿を消した方向に数秒、手を振った。枝だけ持って登園した。

6月22日(火)

仕事終わりに友だちと待ち合わせて神保町の丸香でうどんを食べた。4年ぶり。おいしい。丸香には間違いというものがない。

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月見山 中もり

それからさぼうるに行っておしゃべりをした。さぼうるでは友だちの友だちも合流した。わたしは初対面の人を交えて話すのがとてもとても久しぶりで、何年も稼働していなかった脳の部位がぎしぎしと動き出すような感じがした。気持ちよかった。

地下鉄の改札で友だちと友だちの友だちに見送られて去った。ふたりはトーンの違う青色の服を着て手を振っていて、なんだか面白かった。

6月23日(水)

幼稚園は早く終わり、わたしは子どもを連れてイオンに行った。買う予定だった小さいおもちゃを買ったあとはそれを子どもに握らせて近くの回転寿司屋に入った。いくらが欲しいと子どもは言って、いくらだけを吸って食べた。
「わたしお酒飲んでもいい?」ときくと「もちろんいいよー!」と許可をもらえた。べつに許可なんてとらなくてもいいのだが子どもの快諾が気持ちよくてつい欲しがってしまう。ハイボールとオレンジジュースで乾杯した。お寿司はイワシが安くておいしかった。

6月24日(木)

ひとりでいられる時間はぜんぶ図書館のまわりで過ごした。図書館で本をえらんで、読んで、お腹がすいたら本を借り出して、近くのカフェに入った。腹ごしらえをしてつづきを読んだ。借りたのは短い小説だったから紅茶を飲むあいだに読み終えた。図書館に入って返却した。

図書館をすきになってから、身体が図書館の近くにあると安心する。なにを読むか、読まないかは重要でなく、本や本棚のある空間がそこにあるだけで心が落ちつく。

家の廊下の本棚にも図書館コーナーをつくった。図書館から借りてきた本10〜15冊をひとつの棚に並べている。眺めているとにこにこ顔になる。出張版の小さな図書館だ。図書館はわたしにとっていちばんわかりやすい福祉である。サイコーにいかした福祉。

図書館に掲げられている宣言もかっこよくてすきだ。

図書館の自由に関する宣言

図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設提供することを、もっとも重要な任務とする。
この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。
第1 図書館は資料収集の自由を有する。
第2 図書館は資料提供の自由を有する。
第3 図書館は利用者の秘密を守る。
第4 図書館はすべての検閲に反対する。
図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。

公益社団法人 日本図書館協会

6月25日(金)

幼稚園で流行りの風邪を、子ども経由でもらってしまったようだ。子どもはコホコホしているくらいで元気そのものだったから油断した。
昨晩からいやな予感はしていたが、起きてみると「だみだこりゃ」という感じだった。子どもは元気だから幼稚園にいく。わたしはなんとか弁当だけは作り、あとは夫に託した。夫は都合をつけて子どもの送り迎えと、迎えのあと遊び場に連れていくところまでしてくれたので、わたしはそのあいだずっと自室でばたんきゅーしていることができた。かかりつけの医院に電話してみると「次に診られるのは来週水曜の午後」と言われ、いや、そのころには治っちゃう!(?)とおもった。近所のほかの内科医もつながらず。手持ちのあたりさわりない薬を気休めに飲んでただひたすらにばたんきゅーしていた。

寝ていることしかできないような風邪をひくのはずいぶんひさしぶりだ。こうやって昼のあいだじゅう寝ていても、やたらに変な夢をみたり、天井がぐにゃあと歪んで近づいてきたり、時空をワープしているような感覚になったりはしないのは、わたしが子どもでなくなったからなのか。

夕方、子どもが帰宅するなり「もうげんきになった?」と笑顔をはじけさせながら言った。期待に添えず申し訳ない。

6月26日(土)

夫がたくさん買ってきてくれたカップ入りゼリーの果肉を器によそって子どもに差し出した。わたしは残ったとうめいなゼリー部分を食べた。ゼリーがこれほど美味しいというのは風邪をひいた者だけの特権かもしれない。喉をつるんと冷たいものが落ちていく。

熱はないが喉の痛みがひどい。ふと駅前の耳鼻咽喉科のことを思い出して、行ってみることにした。新型コロナウイルスの台頭により、風邪症状があるとそのへんの医院ではなかなか普通に診てもらうのが難しくなった。しかしこの耳鼻咽喉科ではふらっと行ったらふらっと診てもらえたので拍子抜けした。鼻を細い管で吸われ、白い気体を吸い、それからたくさん薬が出た。行きつけの薬局の薬剤師は「ずいぶん出ましたね〜」と苦笑を隠さなかった。出た薬のうち、抗生剤は飲まなくてもいいということになった。物言うかかりつけ薬剤師、頼もしい。

家で薬を飲み布団に倒れ込んでいるとチャーハンを食べていたはずの子どもがいつの間にかやってきて隣で寝ていた。

6月27日(日)

先週蒔いたいろんな種から芽が出ている。ミニトマト、パクチーなど。子どもに水をやってもらうことにする。芽はまだ小さくたよりないので水をやさしくかけるようにお願いした。「やさしく…やさしく…」と子どもはつぶやきながらジョーロをかたむけていて、じっさいに水流がやさしいかはともかく、気持ちがやさしかった。子どもは小さきものへの親切心をもっているらしい。よその赤ちゃんや小さな動物にも限りなくやさしい。自分自身が小さいのになんだかおもしろいし、えらいもんだよなあとおもう。

夜、夫が用意してくれた食事がおいしかった。ごはんがすすむやつ。ひさびさに白いごはんをもりもり食べたので風邪も治る気がする。食べたから治るのか、治りかけているから食べられるのか、どちらにしてもありがたい。「食欲ない…」って言うわたしにはけっこうな悲愴感がただようらしく、そういう風邪のときには周囲に普通より余計に心配をかけてしまう。食い意地の張った人間の業である。

6月28日(月)

朝7時にごはんが炊きあがるように夫がセットしてくれていた。2合分のごはんを全部おにぎりにしてみんなで食べた。中身は塩昆布とゴマか、鮭とゴマである。塩昆布はしばらく置いてから食べたほうがごはんに味が馴染んでおいしいよなあ、と思いながらすぐに食べた。

おにぎりのむすびかたは小学生のころ母に教わって以来、更新されていない。手がおぼえているものらしい。あれくらい熱いものをすすんで手に乗せるのはおにぎりをむすぶときくらいだから「あっつ!」がスイッチになって記憶とつながりやすいのかな。わたしのむすんだおにぎりはわたし好みでよい。小さめで具が多くて塩がきいているのだ。

6月29日(火)

昼前に雨が止んだから自転車を出した。自転車で仕事にいくのがわたしの中でブームになっている。まず交通費が浮くのがよい。運動しようとしていないのに運動になるのもよい。公共交通機関の混雑に身を置かずに済むのもよい。
今日は仕事先がちょっと遠くて行きだけでみっちり1時間漕ぎつづけることになった。ようやく風邪が治ったばかりのなまった身体に油をさすにはちょうどいい運動、と思ったのだがちょっとやりすぎだった。仕事の前にくたくたになった。くたくたのときゆえの創造性を発揮して(?)仕事はわりといい感じにできた。帰り道に焼鳥を買った。家で食べてから幼稚園に行き、子どもを連れ帰ってきた。晩ごはんはパスタにしたけれど、焼鳥を4本食べたわたしのは子どものより少なくした。節度。30代も半ばにしてわたしにも節度が身についたらしい。

6月30日(水)

同じ幼稚園に子どもを通わせている母たちと、子どもたちが砂場で遊ぶのを囲んでゆるく見守りながら談笑する、というのを今日はじめてやった。ちょっと憧れだったんだ。うれしい。子どもは3さいともなるとりっぱに社会とかかわりはじめるので、そこで人間関係も生まれてくるのだなあ、わたしたち大人が意図しないところにも。と、感心してしまった。

大人になって自分が快適に過ごせる環境がなんとなくわかるようになると、あまり想定外のことは起きなくなる。起きない範囲に安住しているからだ。大人にはその自由がある。少なくともわたしは大人であることのその部分をいたく気に入っている。
でも子どもはそこに想定外を連れてくる。生きているだけで、嵐のように、祭りのように想定外を連れてきて、大人が形成した予定調和の穏やかな世界をかき回す。それは大人にとってストレスである。が、その先に新しい景色が見えてきて、それは心地よいところに大人だけで居つづけたのでは決して見られない景色なのかもしれない。

ふんわりとした話だが、子どもと暮らしていく未来について、そんなことを思った。

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