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●2021年3月の日記 【下旬】

3月21日(日)

鳥との攻防が続いていたベランダのいちご。今回は子どもが収穫できた。

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土に栄養が足りないのか一度に1つしか実をつけない。1つ収穫すると次の実が育ちはじめる。それでも家でいちご狩りできるなんて心躍るね。

3月22日(月)

3年とちょっと前、子どもがおなかに入っていたころは、妊婦を描きたい人だけを相手に絵画モデルの仕事をしていた。大きなおなかを抱えて5箇所ほどのアトリエに出向いただろうか。臨月も近づいたころに産前最後の仕事をした。そこで描かれたわたしの姿は自分でも「おもしろ人間じゃん!」という感想しか出ないくらいおなかがどどーんとせり出していて、なんというか、妊娠中のとてもよい思い出になった。鏡で見てもおもしろ人間ではあったが、他人に絵に描かれるというのはまた迫力がちがう。

きょうの仕事先にその産前最後のモデルを依頼してくれた人がいて、ちょっと話した。それで思いだしたのだ。出産をひかえていたわたしに描き手の人々がかわるがわるやさしい言葉をかけてくれたことが思い起こされてやわらかい気持ちになった。あの日描いてくれたまんまるのおなかに入っていた子は3さいになりましたと言ったらとてもおどろいていた。わたしもおどろいています。

3月23日(火)

仕事のあとの脱力したからだをのろのろと引きずるようにして駅まで歩くときスカイツリーがみえた。

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大きな塔はつい見上げてしまう。ぱかんと口を開けたまま歩いていることに気がついて人とすれちがうときぱくっと閉じた。

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足もとにはアスファルトに咲く花代表みたいな花が元気に咲いていて(名は知らん)このみの道だった。

3月24日(水)

美術展に出かけた。保育園に子どもを迎えにいくまでにそれほど時間がなく、1時間弱でささっと。仕事帰りで首や肩に痛みを感じながらたくさんの緻密な絵をみてさらに首肩が凝るような思いがした。緻密な絵にはかけられた手数ぶんの思念みたいなものがある気がして圧を感じるしその圧がすきだ。わたしもこのような圧をどこかしらに持たないとつまらんよなとおもう。それにしても紙に絵が描いてあるのはとても贅沢な感じがしていいなあ、それが額に飾ってあるとなおさらだなあなんて、デジタルでさまざまな作品を楽しむことに慣れていたらしいわたしはぼーっとしてしまった。そこに在るということ。場所を占めること。かさばること。が、とても魅力に感じられちゃう。今日び、そこに物体として存在することは豊かなことになってしまった。わたしにとって。ふつうにどうかしてるよって昭和生まれ平成育ちの心は叫ぶ。令和のわたしは、まあね、そうだよねー、と応答する。

3月25日(木)

駅ビルからエレベーターですべてを振りきるつもりでギューンと降りて目の前にあった浅野屋でクイニーアマンを買った。それからグリーン車に乗って食べた。わたしがグリーン車に乗るときはグレているときだからきょうの仕事でもやっぱりグレていて、でもグレてしまうかんじの仕事はきょうを境にしばらくないので解放感もある。グリーン席でパーティーだ。クイニーアマンが甘あまなのがよい。クイニーアマンって肉まんとかあんまんと同じように〜まんのノリで発声しちゃうけどたぶん切りかたちがうよね。クイニー アマンだよね。

3月26日(金)

図書館で絵本を借りることに味をしめて先週に続いて図書館を訪れた。子どもにえらんでもらうと本棚のまえをとたとた駆けまわって借りたい本をみるみる7冊くらい積みあげてしまった。えらぶのはやい。母は借りる本えらぶのにめちゃくちゃ時間かかるからその決断のはやさ尊敬する。7冊は重いから4冊にしぼって借りた。かれが一般書コーナーにもしずかに付きあってくれたため、わたしも目当てのブレイディみかこ『女たちのテロル』を借りた。ずっしり。

いまさらだけど図書館ってなんてすばらしいインフラなんだ。

3月27日(土)

家族3人芝生に出かけてピザを食べた。夫がピザを買いに行き、わたしと子どもはコンビニでコーラ、ジュース、しみチョココーンを買い込んだ。すばらしい陽気だ。芝生の隅には伸びきった数本のつくしがほとんどスギナに埋もれるようにしていた。カラスノエンドウが咲いていた。クローバーは萌えてきたばかりで緑の砂利みたいにこまごましていた。

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桜も咲いていた。

走りまわるのに夢中で子どもはピザをほとんど食べなかったからわたしは満腹になった。

3月28日(日)

大きめの公園に行って子どもとはぐれてしまった。見つけられなかった15分くらいの間(もしかしたらもっと短かったのかも)悪い事態ばかりが頭をよぎり寒くもないのに手足が冷えた。

けっきょく公園に併設された公民館のようなところで子どもは保護されており、スタッフのひとに抱っこされてしがみつきながら無の表情になっていた。抱きとった子の温度に身体が溶けるほど力が抜けた。壊れたプレーヤーみたいに震える声で繰り返し礼を言い建物をあとにした。抱っこのまま家に帰った。重さをあまり感じなかった。

3月29日(月)

いくらでもやることあるのに『女たちのテロル』読むのをやめられなくてこまった(こまってない)。

100年くらい前を生きた女性たちの闘い(おもに階級や格差との)が書かれているんだけど、彼女たちがくぐり抜けた(くぐり抜けられなかったのもある)弾圧や暴力のソーゼツさと、それでも折れずに動きつづけていくところに「人ってこんなにつよい生き物なの?まじ?」ってアホみたいな顔して読んだ。なんていうか、彼女たちが死にものぐるいで勝ちとったものの上でグータラ暮らしている100年後のろくでなしがわたしだよ、って気分になってふつうに落ちこんだ。

最近読んだミン・ジン・リー『パチンコ』とも重なる部分があって考えこんだ。考えこんだところで知識があまりにも足りないから考えが深いところまでたどり着けない。わたしには勉強するべきことが山ほどある。もうマジで。

3月30日(火)

古着屋で服を買ってきた。中央線沿線にある小ぎれいな古着屋で、ここに行くと不思議といつも求めるタイプの服がズラッとぶら下がっているのだ。今回も軽く見まわっただけで試着する服が5着もあり、うち3着を買って帰ってきた。250円のTシャツには USE YOUR HEAD と書いてあって今のわたしにぴったりだとおもった。

3月31日(水)

0さいのころから子どもを預かってくれていた保育園の、きょうが最終登園日だった。年度終わり。子どもはうっすらと別れの気配を察知してここ数日、ちょっと不安定になっていた。それでもきょうは元気に登園していった。

夕方、先生がたへのお礼の手紙と菓子折をさげて迎えにいくと、駆け寄ってきた子どもは先生お手製の進級メダルを首からさげていた。その顔はもちもちと輝いていた。最終日ということで大人たちみんながちやほやと声をかけてくれるのがうれしかったみたいだ。

「いつでも遊びにきてね」「幼稚園の帽子見せにきてね」と先生総出で見送られて、わたしもセンチだったが、子どもも自転車のうしろであまり見たことのない表情をしていた。

園長から袋入りのアルバムをカジュアルに手渡されてカジュアルに受け取ったのだが、家に帰って開けてみるとこれがとんでもないボリュームの力作で涙が出た。クールな認可外保育園だとおもっていたのにこんなにたくさんの写真を撮ってくれていたなんて…。しかもかなり手間をかけてかわいくデコってある…。
これからも折に触れ夜な夜な取り出し眺めては涙することになりそうなアイテムだ。家宝である。

4月から子どもは幼稚園児になる。




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