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2022年よんだ本を思いだせるだけ 前半18冊

作品の重要な展開については触れていないつもりです。

●波木 銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』

景気のいい小説。面白すぎるう
マチェーテ、大麻などの道具立てが"快"を引きおこしてきて読んでいる間ずっと駆りたてられている状態だった。読む快楽。

●猪熊弘子、ほか『保育園を呼ぶ声がする』

ジャーナリスト猪熊弘子氏と有識者との、保育にまつわる対談がおさめてある本。対談(鼎談)相手は英国での保育士実務経験があるブレイディみかこ氏、哲学者の國分功一郎氏。
わたしは保育士試験を春に控えていて、しかもブレイディみかこの著作を追っていたところだったから、勉強を兼ねて読んだ。保育の実情などを資料も提示しながら語ってくれているこの本は試験のためにもなったが、強く印象に残ったのは國分功一郎氏の語りだった。語りからにじみ出る子どもへのまなざしの自然な優しさを感じ取って、えーこの人哲学者なのか、この人の哲学触れてみたいと思った。
のちに著作を読んでとてもよかった。(後半で熱っぽく語るつもりがある)

●ウィルジニー・デパント『キングコング・セオリー』

今年読んだ中でも最も大切な本の一つ。
この本を読んだ記憶がいつの間にかすごくあたたかいものになっている。どうしてわたしにとってこの本に書いてあるようなことが重要だったんだろう、というのをすこし言語化してみた。

性被害当事者でもあるデパントが語る性被害と、そこからの回復(とは違うのかもしれない)のプロセスは、ときに当事者でない人々が被害者に抱きがちな「こうあってほしい姿」を裏切るような形をとる。例えば、売春という行為によって性被害の記憶からの(ある意味での)癒しを得たりする。性被害は忌むべきトラウマ体験であると同時に、もはや彼女とは切って切れないもの、人格形成に資する経験にもなっている。
当事者でない人々が「性被害当事者」と聞いて思い描くようには、当事者というひとりの人間は単純でない。一枚岩でいかない。そのことをこの本は説得力をもって知らしめようとしてくれているように思った。わたしの当事者である部分がすごく力づけられた。エンパワメント本。

●チョン・セラン『アンダー、サンダー、テンダー』

チョン・セランの初期の作品らしい。そう言われてみると、最近の著作と翻訳者が異なるのもあるかもしれないが、文から受ける印象がちょっと違う。生々しさがある。『フィフティピープル』や『保健室のアン・ウニョン先生』にみられるような、現実の残酷さや理不尽さを踏まえた上でのさわやかな語り口とは、趣がちがうように感じられた。残酷なものは残酷なまま、血の滴る傷は血の滴るままに、こちらの目の前に置きにくるような文章。
チョン・セラン作品の中でもすごく好きな小説になった。

●チョン・セラン『シソンから、』

チョン・セラン作品はこれだから見逃せないぜ、と思った。
人は突然暴力に晒されるし、不幸に突き落とされるし、突き落とす側になることもあるし、過ちもおかす。そこのところを容赦なく描きながらも、個々の人間がその場所から持ち直す力についてすごく信頼感をもって紡がれた物語だなあと感じ入ってしまった。

『フィフティピープル』のときにもそうだったけれど、読んでいるあいだと読んだあと2週間くらい、登場人物たちが小さな動く人形になって頭の中に住み着いて、ああでもないこうでもないと掛け合いをしているのが聞こえるようだった。他人にこんなことを起こせるなんて、著者は個々の登場人物をとても誠実に造形して送り出しているに違いない。すごく信頼しているし、次作を読みたいから生きていこうと思える小説家の一人だ。

●ハン・ガン『菜食主義者』

読んでいる間、窓のない狭い部屋から出られなくなったような閉塞感をずっと感じつづけていたように思う。息が詰まった。語られる事象にはうんざりしたし、アホかと言って本を閉じてしまおうかとも思いつつも、なんだかんだ、呼吸少なめに読み進めてしまった。
わかりやすく奇抜な設定を与えられたこの物語をただのフィクションとして片付けられなかったのは、わたしにとっての現実が姿を変えて描き出されていたからだ。言い当てられた不快感のようなものがしこりとなって残る。たくさんの人(とくに女性たち)にとってこのお話はそうなんだろうと思う。

というふうに、感じるものは大いにあったのだが、わたしの好みからすると著者の意図が強く意識させられすぎる小説だった。メッセージのために存在させられる物語をわたしは好まない。

好きかと言われれば好きではない。でも忘れないお話。

●宮地尚子『傷を愛せるか』

いつも、この人の文を読む間、特別な時間が流れるようにわたしには感じられる。癒し、というとちょっと違うんだけど…と言葉を探していたら、「リトリート」という言葉が浮かび上がってきてすごくしっくりきた。いったん立ち止まってうずくまる空間を提供してくれるような、繭のような文字の連なりだと思った。

●片山令子『惑星』

図書館の棚にひときわ目立つ黄色いきれいな本があって、借り出してきたのがこの本だった。片山令子という人が詩人なのも知らずに読んだ。エッセイの合間のところどころに詩がはさまっていて、その詩の美しいことに驚いた。そして美しい詩を書く人のエッセイの圧倒的な言葉選びの美しさにはショックを受けるほどだった。

エッセイには絵本の文を書いたときの話も明かされていたので、それもすかさず図書館で借りた。『たのしいふゆごもり』という絵本で、子どもと楽しく読んだ。子どもと絵本を読むようになってわかったことだが、冬ごもり系児童文学というものが存在しそうなくらい、動物の冬ごもりをモチーフにした絵本って多い。どれも好き。

●小泉今日子『黄色いマンション 黒い猫』

黄色いおしゃれなマンションで黒い猫と暮らす日常がホッコリ描かれているのだと思った。なんの緊張感もなく読みはじめた。そうしたら、まったく予想と違った。最初の話を読んでひとしきり落ち込んだ。それから若干、背筋をのばして読んだ。いい本だった。

●武田砂鉄『マチズモを削り取れ』

今年(出たのは昨年だけど)いちばん感激した本。日本社会ってすげえ男性優位だしそれを温存しようとする力がしつこく働いてるよね、ということを追求する本。
わたし(30代女性)からすると、この本でとりあげられているようなこと(レイプカルチャー、ぶつかり男、頑なに洋便器に立ちション男)は全くありふれた光景だ。おおよそこの国で女として生きてきた人間にとっては「うん、まあムカつくけどずっとそうだったよネー」という感じで新鮮味はない。
ならば何に感激したかというと、第一に、この本を男性が書いたという事実が頼もしくて仕方なかった。冒頭で著者は「男、めっちゃ有利なのだ。」とまず書いているが、自分が男性だったとして、それを認識するのってかなり難しいことなんじゃないだろうか。そのハードルを序章でしっかり超えて見せてくれている。のちの章でも、自身が男性であることで有利な立場に置かれていたかもしれない過去の出来事を語り、検証しているところがあった。自分の立ち位置の設定に狡いところがほとんど感じられない。
第二に、追求がめっちゃしつこい。「これっておかしいですよね?」ということ・人を見つけたらずっとひっついて離れない。追求される側の立場で考えてみるとたまったものじゃないだろうなって思う。なんか突然、「おかしくないですか?」って肩を叩かれて、やべって思って、巻こうとしてもずっとついてくるし、あ、やっと違うほう行ってくれた。超しつこかったけどいなくなってくれてよかったー、と思ったころに別の角から出てきて「やっぱりおかしいですよね?」ってまた肩を叩かれるみたいな感じ。どこまでもどこまでもついてくる。
される側としてはたまったものじゃないが、大体がそこまでしつこくしても無言で逃げ続ける人たちを相手に、これほど心強い文章もなかなかないと思う。

●ブレイディみかこ『両手にトカレフ』

ブレイディみかこ氏の何度でも金子文子を取り上げる姿勢が好きで仕方ない。昭和のアナキスト・金子文子を紹介した『女たちのテロル』以降、著作には隙あらばといった感じで金子文子が登場してくる。エンパシーについての論考『他者の靴を履く』もそうだったし、『ぼくイエ2』にも出てきたと記憶している。表紙イラストを見たときにもしかして今回も…? とは思ったが、今回の小説でも金子文子が重要な役割を担っていた。現代英国のティーンエイジャーが主人公の小説で金子文子を登場させたやり方はかなりチカラ技で、思わず笑みがこぼれてしまった。

●グアタルーべ・ネッテル『赤い魚の夫婦』

いきものが出てきてわくわくする。ひとくせもふたくせもあるけれど、いきもの好きにおすすめしたい小説。わたしはとりわけ、印象的な虫が出てくる話が好きだった。

●猪熊弘子、寺町東子『子どもがすくすく育つ幼稚園・保育園』

保育士試験を受けた直後に読んでいた本。
さまざまな保育の現場を(良い取り組みのあるところも、事故をたびたび起こす劣悪な体制も)見てきた著者たちの切実な願いを感じた。子どもたちが保育される環境がより良いものとなるように、という。
保育の現場で起きた事故の事例が紹介されているパートが本当に読み進めるのきびしかった。

●村中直人『<叱る依存>がとまらない』

もうタイトルだけでぎくっとせずにはいられなかった。
いや、叱るっていう行為を解きほぐしたりなんてしたら絶対に叱る側のダークな欲望が出てきちゃうでしょ、と自分ごととしてピンときてしまったので、読み始めるまでにちょっと覚悟が必要だった。
でも読んでみてわかったのは、この本はべつに「叱る依存に陥っている人を叱る本」ではなかった。
叱るってなんだろ? と思ったことのある人が気軽に読むのにもぴったりだと思う。すごく読みやすい。
読みやすいけどスケールのでかい本でもあった。叱る依存と言われてパッと思い浮かぶ「親(大人)が子どもを叱る」という構図だけではなく、この依存はもっと社会全体の事象にも影響しているのだということを示唆しちゃったりして。こっちもピンときてゾッとした〜。

「叱る」にはほとんど効果がない。とりあえずこれだけでも脳内の半紙に清書しとこ。と思った。

●金原ひとみ『アタラクシア』

これが(わたしの狭い周辺で局所的に)噂の「みんな違ってみんなヤバい」文学か〜! とひれ伏した。読んでいる間ずっとニコニコしていたと思う。

●ルシア・ベルリン『すべての月、すべての年』

ずっとすごい。作品集『掃除婦のための手引き書』の衝撃が昨年、忘れられずにいるところに、今年もこれで畳みかけてきた。
ずっとすごいから19篇ぜんぶすごいんだけど一番ガツンときたのはやっぱり表題作「すべての月、すべての年」だった。わたしは。あとは「虎に噛まれて」「ミヒート」も忘れられない。

話の中では衝撃的なこと・悲劇的なことがけっこう起きるんだけど、ルシア・ベルリンはいつもまったくそこに立ち止まらない。描写しては歩き去る・描写しては歩き去るって感じがする。読み手があっけにとられるくらいに。置き去りにされてあっけにとられるのが快感になり、次の短編に進む。それを19篇分やれるんだから、やばいとしか言いようがない。

●中村佑子『マザリング 現代の母なる場所』

すごい本。読みながら何度も「もうだめだ…」って声に出して本を閉じた。感情が動きすぎた。

周産期の女性の語りって、インターネットに確かにたくさん綴られている。でもその主なトピックは「パートナーとの葛藤」「ホルモンバランスの崩れ」「絶え間ない赤子の世話による精神的・体力的摩耗」である。妊娠・出産という特殊な(と言っていいと思うんだけど)体験の中にある妊産婦本人が「身体を通して感じたこと」を書いたものは、不思議なほど見つからない。冒頭で著者がそういう感じのことを言っていて、わかるー! 本当にそうだった!! と心が跳び上がった。わたしもそういうものを求めて這うようにインターネットを探しまわったけど見つからなかったのを思い出した。
妊娠・出産って、いかに医療が手厚くなろうとも、ある程度は肉体が強制的に「動物に引き戻される」体験だと思う。少なくともわたしにとってはそうだった。人間として社会で活動しているときには思いもよらなかったような不思議な体験をいろいろしたし、でもそれはわたしだけではないのだ、周産期の女性の多くがさまざまにそういう体験をしているのに違いないと確信していた。だからそういった話を(主に授乳で目が冴えた夜中に)インターネットで探してもまったく見つからないのにびっくりした。びっくりしつつも結局わたしも書かなかったので、みんなそういう感じだったのかもしれない。あまりにも身体的な感覚は、言葉にし得ないものも多い。時間的・精神的に乏しいあの時期にはなおのこと。
でも中村佑子氏は書いてくれた。そのありがたさでまず、むせび泣いた。そしてそれを読むことで、言葉として留めないままに忘れ去ろうとしていたわたし自身の「あの時期」の記憶がまざまざとよみがえってきて、すごくよかった。うまく言葉にできなくとも、言葉にしてみていいんだと思えた。

●『早稲田文学増刊 女性号』

古谷田奈月「無限の弦」が収録されていた。他にもたくさんドキッとする作品を読んだはずだが、「無限の弦」の衝撃があまりに強すぎた。読んだあと興奮して眠れなかった。今年いちばん出会えてうれしかった小説。








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