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●2021年9月の日記 【下旬】

9月21日(火)

ご飯1合分をおむすびにする間、子どもが脚にまとわりついて自分にも米を握らせろとかブドウを出せとか要求してくる。頭がぼうっとして反応できない。一度にふたつ以上は無理。夫が対応。

子どもとおむすび2つ(しゃけとおかか)を幼稚園に送り届け、家に帰るととても静かなのが笑える。リビングの床に整然と並べられた車の玩具たち。さっきは目に入らなかった。きれいな並び。

子どもと同じおむすびのセットを巾着に入れて出かける。巾着も子どもの。仕事先の更衣室で食べる。おかか、しゃけの順番で。

仕事はなんだかうまくいった。こういう日をもっと増やせるといい。

9月22日(水)

5時半のアラームよりも早く目が覚めて、何度か右に左にぐねぐねしたあとちゃんと起き上がった。二度寝すると思ったのに、なかなかやるじゃないか。感心感心。これはわたしの話です。

6時に米が炊けるまでの間に顔をととのえる。もこもこの泡に埋もれつつ、このリッチな泡を作れる洗顔料もぼちぼちおしまいだなあと寂しく思う(トライアルセットのやつ)。やがて炊飯器が「炊けたよー」とわたしを呼ぶが、化粧がノッてきたからいったん無視。眉毛がそこそこいい形に描けた。眉、最近、アイライナーとしてはうまく使いこなせなかったアイライナーで仕上げている。

眉毛描きとして優秀。
眉のために買い足す。

にぎりめしを作りクマのタッパーに詰めてから、子どもが寝ている部屋のドアを開ける。子どもがやがて起きてくる。夫もこのころ起きてくる。

夫が朝の預かり保育に子どもを送っていってくれる。いってらっしゃいと玄関で別れたあと、わたしも最終的な身支度を整えて家を出る。衣装の入ったデカい袋が手の指に食いこむ。今日は仕事先で民族衣装を着るのだ(美術モデルをしている)。

通勤電車でスマホをにらむ。子ども関連の用事でときどき連絡をとる必要のある人から連絡を遮断されている。連絡がつかないこと自体は大した問題ではないのだが、そこに強い思念を感じて気持ち悪い。その相手が他者とやりとりするグループラインがひんぱんに流れてくる。

仕事先の更衣室で民族衣装に着替えるあいだも考えこんでいたが、精巧な衣装に身を包んだ自分を鏡に映した瞬間に、「まあいっか!わたしの人生の大勢に影響はないし!」と口に出して言った。

大勢に影響はないは、ジェーンスーさんがラジオ番組かポッドキャスト番組で言うのを聴いて感銘をうけたせりふ。勢いよく言うのがポイントっぽい。

人生のリアルなサバイブ術を
勢いよく授けてくれる。

お昼ごはんにチャメのスンドゥブを食べると決めていきいきと仕事をした。ポーズ中にお腹がきゅるーんと鳴った。チャメは恵比寿のおいしいスンドゥブ屋さん。

30分歩いてチャメを食べに行った。チャメスペシャルチーズスンドゥブ。空腹もあいまってチャメがさいこう。倍食べたかった(量はちゃんとあります)。

サイトもとてもよいので見てください

夜はサバ缶と玉ねぎを炒めて絡めただけのパスタを家族と食べた。食事中、フォークを持つ夫の手が10センチくらいの幅で揺れだして、なんだろう?と思ったら夫が「これ別に遊んでるわけじゃないんです」と言った。自分では止められないたぐいの震えらしい。振れ幅が大きすぎてつい、楽しそうに見えてしまった。本人もそれほど狼狽していなかったところを見ると割によくあることなのかもしれない。人体にはいろんなことが起きるとはいえ、さすがに心配である。

9月23日(木・祝)

朝の決まった時間になると(具体的には8:43)家族3人でテレビの前に並び、Eテレのピタゴラじゃんけん装置と勝負する習慣ができあがっている。じゃんけんに勝っても負けても子どもは「やったー」と言って勝った感を出す。

恒例のじゃんけんのあとすぐにふたりを残して家を出た。今日は午前と午後にそれぞれ仕事がある。そのあいだ夫と子どもはお出かけをして過ごしてくれるようだ。

午前の仕事から午後の仕事への移動時間が短く、昼休憩がないので、携帯食に昨日にぎった古いおにぎりを持っていったら、硬かった。冷蔵庫で一度冷えたせいだ。午前の仕事先でもらったナボナをデザートにしてどうにか食事っぽくした。

9月24日(金)

子どもが幼稚園に行ったあと、就業時間中の夫を誘ってモンブランを半分ずつ食べた。

わたしの苦手なケーキはモンブランで、でも毎年「そろそろ好きになった気がする!」などと言い、買って食べては玉砕している。でも半分こならもし玉砕してもダメージもそこまで大きくないだろう。夫はモンブランがすきだから、少なくともケーキの半分は報われる。

果たして半分のモンブランは最後までおいしくいただけた。半分だったおかげで飽きなかったか、わたしの味覚が進歩したのか、我が街のモンブランが奇跡的に美味なのか。どれもちょっとずつある気がする。

夫とふたりでケーキを食べるなんてずいぶん久しぶりだった。紅茶を飲みながら最近の心配ごとなどをきいてもらい、いささか共感力の強すぎる夫はわたしの心配に引きずられてふたりでいっしょにウワーッとなったりして(ごめん…)、なんだか久しぶりに心のちょっと深いところで通じ合った気がした。

夫は不安定になったまま(ごめん…)在宅勤務。わたしは仕事先に向かうため外に出たが、駅の改札前で財布を持っていないことに気がついた。交通系ICカードは財布の中だ。凍りついたが、乗らなければならない電車は3分後に来る。凍っている場合ではない。祈る気持ちでかばんをあさると現金入りの茶封筒が出てきたので、「過去のわたしありがとう」と思った。わたしの天使はいつでもわたし。

数年ぶりに買った切符はポケットの中で指にこそばゆかった。

9月25日(土)

3さい半の子どもはよく「笑ってよ」とわたしに言う。言うのはきまって、わたしが子どもになにか注意をしているときや、子どもがしてしまったことに文句をたれているときだ。「笑ってよ」と言われてはじめて、自分がひどく不機嫌な顔をしているのがわかる。恥ずかしい瞬間だ。
わたしはどうにかひきつった笑みを浮かべて、さっきから言っていることを繰り返す。形だけでも笑えば口調は自然とまろやかになるものらしい。子どもはうなずく。それで魔法みたいに全てがすんなりといくようになるわけではないが、少なくとも、友好的な会話が成立する。

しっかりと見られているものだ。言葉そのものよりも、表情や口調から、わたしの子どもはわたしの意図を感じとる。わたしの心などまるはだかだと思っていたほうがいい。

9月26日(日)

食欲がない。

ないとは言ってもこれまでのわたしとくらべたらないも同然、ということで、かなり人並みには食べている。ひょっとしたら人並み以上。

ずっと、食欲おうせいすぎることが悩みで(食べものにお金がかかるから)、でもどこか誇らしくて、この食欲とずっと生きていくんだと思っていた。70歳くらいになったらさすがに勝手が違ってくるかもしれないけれど、それでも一生もりもり食べていたいな。

と思っていたのに、まさか30代のうちに食欲が落ちるなんて思ってもみなかった。わたしの従来の食べっぷりを知る友人や夫がシリアスな調子で「…大丈夫?」と訊いてくれる。ありがとう。そうだよね。心配になるよね。わたしもすごく、わたしが心配。

食欲低下に無常を思う。変わらないものなどない。衰えないものはない。わたしもいつか死ぬのだと、今まであまりピンときていなかったことがすんなり入ってくる。

9月27日(月)

昼に終わった幼稚園のあと、子どもが行きたいという公園に行くと、同じ組の子どもたちがいた。同じだけの母親もいた。

公園でのふるまいがわからぬ。彼女たちとどのような会話をすればよいのかわからぬ。

と思うわたしは人に興味がないのだろう。親しい人たちとの関わり以外の人間関係全般を、乗り切らなければならない課題としてしか捉えられず、とにかく穏便にやりすごすことしか頭にない。

なぜか、昔すきだったことのある男の人の苗字で何度か間違えて呼びかけてしまったよその子の母親と話すときはとくに気まずい。

子どもが泣いたのをきっかけに公園を出た。

9月28日(火)

乗りたい時刻の電車に乗るために、スキニーパンツを履いて駅まで走ったのが快感だった。何度かダッシュに疲れて、その間もちゃんと関節がこりこりいう音が聞こえるくらい大股で歩いた。

地下鉄では読みかけの翻訳短編集『楽しい夜』を読んだ。ちょうど一編読んだところで下車駅に着いた。

いろいろな作家の短編が載っている
いったいわたしは何を読まされているんだ?
となる(いい意味で)

9月29日(水)

仕事に向かうため、ふだんウロつくことのない上質な街の住宅街を歩いていると「アフターライフレジデンス」の看板があり、素通りしたあと二度見した。どういうことだ? とあとで調べると納骨堂のことだった。納骨堂=アフターライフレジデンス。横文字には無限の可能性を感じる。

流れでわたしが骨になったときのことを考える。しかし骨になったときはわたしは死んで存在しないから考えるだけむだだ。骨になったわたしのことはもう本当に、任された人の気が済むようにしてほしい。どこに置いても埋めても感知しないし(当然だ)、プランターの土に混ぜてくれてもいい。焼かれて骨になったあとでは肥やしとしても大して役には立たないが。

思春期から30までは定期的に死にたくなっていた。それがわたしのあたりまえだった。31を境に希死念慮がきれいさっぱり消滅したのは出産をめぐるホルモンのなにかの仕業だろう。死にたさまで操作するなんてホルモンは本当におそろしい。しかし死にたいと思わなくなってからのほうが死について自分ごととして考えるようになったので不思議だ。以前ならば納骨堂から自分の死を連想したりはしなかっただろう、たとえ死にたいと思いつめていたときのわたしでも。

9月30日(木)

同じ幼稚園に子どもを通わせる母親と茶をしばいた。わたしは慣れないイベントにうきうきで、朝の服装選びで迷走したあげく子どもを幼稚園に遅刻させてしまった。

茶をしばきつつ「旅行いきたいっすね…」「ビール飲みたいっすね…」と話して遠い目になる大人がふたり。語尾に3点リーダーがついてしまうのは時節柄というやつだ(現在、疫病が流行しているために、行動に何かと制限がかかる)。

幼稚園の教室から出てきた子どもを自転車に乗せて走っているうち、「きょうはだれに会いにいこうかねえ」とうしろの子どもがつぶやくのが聞こえた。だれかに会いにいく前提。そうか。この人、人に会うのがすきなんだな。

あいにくだれとも約束していなかったので、子どもが0さい〜満3さいまでお世話になった認可外保育所にふらりと行ってみることにした。

アポなしで行っても馴染みの保育士さんたちは温かくわれわれ親子を迎え入れてくれ、保育室内で子どもはみるみる通っていた当時の調子を取り戻し、保育士さんたちへの甘えかたも心得たものだった。
わたしはこの保育所の保育サービスによって仕事への復帰を果たし、そのことで社会的な命を救われたと思っている。大げさではない。保育室の床に座りこんで麦茶をいただきながら当時のことを思い出してじわっときた。3さいまでの子どもの、たぶん半分くらいを育ててくれた人たちと場所。とても小さいころから子どもを知ってくれているプロがいるのは心強いし、ありがたい。

保育室には3人の赤ちゃんが眠っていた。今もこの保育所に救われる親は多いだろう。この保育所はこの地域で、保育サービスにつながれず困っている保護者の最後の頼みの綱、みたいな機能を果たしている。これが思いの外ぶっとい綱なので安心してつかまっていられる。

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