見出し画像

●2021年1月の日記 【中旬】

1月11日(月・祝)

自転車にのってピザ屋にでかけた。子どもとふたりで。正午前だからか人気店なのに空いていた。持ち帰りでなく店内でいただくことにして、小さなマルゲリータとパスタとフライドポテトを注文した。
ピザがいい〜という子どものたっての希望でここに来たのだが、彼はフライドポテトとパスタを重点的に食べていた。顔なじみの店主さんにかまってもらって満足そうにしていたからそれが目的だったかもしれない。ピザが食べたいというよりピザ屋さんに行きたいだったわけだ。あるよねそういうの。

子の通う保育園で定番のお出かけ先となっている公園に行った。これも子どものたっての希望だ。1時間半遊んだ。わたしが屋外遊びを監督をするときはたいていのことを止めないから(追いかけるけど基本野放し)、ふだん先生や子どもたちとの集団行動では止められている遊びかたをどこまでいけるか試している雰囲気があった。岩山をのぼっておりて時々母を輸送手段に使って。いきいき動きまわる子どもを見るのはわたしも嬉しい。軽く転んで「だっこ」ってなるまでみっちり遊んだ。ケーキを買って帰った。

画像1

岩場楽しいよねえ

1月12日(火)

本を買いに池袋に行った。東口からズイーッと進んでジュンク堂。ジュンク堂では本がやたらと魅力的に見える。巨大書店だ、置いてある本がとにかく多いから本がすきな人間にはそれだけでパワースポット的な建物であるのだけれど、ただ本がたくさんあるということだけでは説明がつかないみなぎり方をいつ来てもしてしまう。買い物かごをぶらさげたまま今日も1時間いじょう建物内をさまよっていた。たぶん陳列がすばらしいというのが原因のひとつだ。棚の見せ方になにかしらの熱量をかんじる。「これが売れてる/売りたい/話題になってるから平積みしま〜す」ではないのだ。少なくともそれだけじゃない。ここでは本が大切に売られている気配がし、そのことが本をすきな人間には安心につながる、励まされる。

買った本メモ:
西加奈子『i』
アンナ・カヴァン『氷』
雑誌「母の友」2月号

1月13日(水)

子どもを保育園に送って午前中はがーっと料理をして午後は風呂に浸かってずーっと『パチンコ』を読んでいた。2時間ずっと読んでいて、追い焚きを2回かけた。からだがふやけた。『パチンコ』はかんたんに読むのを中断させないだけの力をもった物語だ。ぜえぜえ言いながら読んで幸せな時間だった。大急ぎで髪を乾かして子どもを迎えに行って児童館で遊んで帰った。家事もバリバリやったし風呂と読書で自分を甘やかす時間もあったし子どもとも遊べた。いい一日だったといえる。こういえる日がめったにないのが我ながら気がかりだ。

1月14日(木)

夕方いつもと違う公園に行って子どもと遊んだ。ボール遊びもできる広めの公園で、サッカーをする小学生や幼稚園保育園帰りの親子で賑わっていた。
子どもがシーソーの片側に乗ってユサユサ楽しんでいると2人の子どもたちが順番待ちにやってきた。わたしの子はゆずりたくなくて着席したまま離れようとせず、すると待っていた子の片方、4さいか5さいくらいの子が「いつまですわってるの?」と詰めだした。(おお、はっきり言う子だな…)とたじたじしていたら、「夜まで?あしたになってもすわってるつもり?」と続けたから一気におかあさんだった。
けっきょく子どもはその年上の子らに混ざって遊んでいた。4人乗りのシーソーに一度わたしも参加したが、「きみ重いねえ」と言われてしまった。気のいい子どもたちだった。

1月15日(金)

午前中は子どもと遊び場に出かけ、昼はモスバーガーで向かい合ってそれぞれのバーガーを食べた。それから引っ返して部屋の混沌を片付けた。友だち親子が遊びに来てくれるのだ。
○○ちゃん(わたしの友だち)と○○ちゃん(その子ども)が遊びにくるよ、と伝えてあったから子どももはりきってクイックルワイパーやコロコロローラーで掃除に参加してくれたが、肝心のふたりがくる前に寝てしまった。「○○ちゃんくる?」と確認しながら寝落ちたのがいじらしかった。
友だち親子が到着してすぐ起きたは起きたのだが、寝起きの子どもは気むずかしく、部屋のおもちゃの所有権をめぐって荒れに荒れ(いっさい貸さない/さわらせないモードだった)、友だちの子を怖がらせていた。弱った。
おやつを食べたあとみんなで公園に行った。子どもたちを見ながらでも友だちと対面で話ができるのはうれしい。友だちが着ていたおニューのパタゴニアのジャケットがかわいかった。真似しようかな(友だちのファッションぱくりがち)。
きのう読み終えた『パチンコ』についても語り合えてよかった。わたしは「読んでるあいだずっとギンギンだった」と言い、友だちは「よだれ垂らしながら読んだ」と言った。お互い「そう!(わかる!)」となっていた。『パチンコ』よ。

1月16日(土)

子どもとはじめて夢の話をした。眠るまえふとんの上で「夢ってしってる?」と話題にだしてみた。「え、なに?」というから説明したのだが、うまくできなかった。「ねているあいだに見るもののことだよ」と言ったそばから自信がなくなった。この子は寝ている間にみているものが現実に見ているものとちがうとはわからないだろうから、説明にならないなとおもったのだ。夢を見ていたとしても夢で起きたことを現実と区別できないのなら夢を夢とは認識しないだろう。じっさいぴんとこないようすだった。夢を夢と認識するにはどれくらいの経験や発達がひつようなのか。何さいくらいでわかるかな。わたしは6さいくらいで見た悪夢を現実と思いこみ両親相手に騒いだ記憶があるから実はけっこう高度な認識なのかも、夢。

方向を変えて「ねているあいだに夢のなかで遊ぶならだれと遊びたい?」ときいてみた。「おかあさんとあそびたい」とかえってきたから母はもうだめです。

1月17日(日)

子どものおしゃべり記録:
「ぼくちょっと○○(毛布の愛称)もってくる おかあさんはここでまってて?」

1月18日(月)

子どもの入眠前に絵本をよんできかせるのが楽しくなってきた今日このごろ。よんでいるときの聞き入りかたや反応のビビッドさが半年前の比にならない。背景に小さく描かれたものにもよく気がついて教えてくれるし、せりふをおぼえるのはもともとだが、以前より物語を理解している気配がある。前まではあくまで音やリズムとして楽しんでいたのが、いまは展開やストーリーに目が向きはじめているようなのだ。ようこそお話の世界へ!と物語を何よりも心の栄養とする"腐っても文学部出身"のわたしとしては祝砲をあげたい気分にもなるのだけれど、よく考えてみれば物語の世界が音とリズムの世界よりも高度なんてことは本当は、ない。わたしなんかはストーリーに気を取られるあまり、赤ちゃんの皆さんがやってるように音のひびきの楽しさ、うつくしさを感じとる能力は死んでいるに等しいかも。ストーリー厨め!
このように、成長しきった大人である自分が子どもよりもすべてにおいて発達していて優れた存在であるという思い上がりはわたしの頭の随所随所に巣食っているから適宜つぶしていきたい所存だ。

きょうの入眠のおともは:
馬場のぼる『11ぴきのねことあほうどり』

11ぴきのねこシリーズだいすき。そろえたい

1月19日(火)

この冬、夜中から明け方にかけて、わたしの胴体には子どもが乗っかっている。脱出をはかろうものなら子どもはすかさず気づいて身体を起こし、泣きはじめ、泣き止まなくなる。そうなると両者とも寝るどころではなくなってしまうから、わたしは寝苦しくとも、トイレに行きたくとも、子どもの下で寝つづけるのが得策だ。胸部にのしかかるのはわたしにとって最愛の15キロであるとはいえ、15キロは15キロだから悪夢を見る。寝違えもする。眠りは浅い。起きる時間に疲れ切っている。
そんな不安定な体勢では子どももちゃんと寝られていないのでは?と思うのだが、かれの寝覚めはいつもすこぶるごきげんだ。つやつやにこにこごきげん丸だ。
わたしはといえば明け方の悪夢をひきずって起床後も頭にもやがかかってものごとをまともに考えることができず(ふだんはできてたっけ?それもわからん)、こまる。
気温が低くて身体はちぢこまっているし、今週入っていたいくつかの仕事もなくなってしまったから(緊急事態宣言の影響)、家に閉じこもってうつうつとしていた。整体に行く気も起きない。身体はもっとちぢこまる。心身不調負のスパイラル!よくないよ

1月20日(水)

気持ちが落ち込んでしかたがないので正常な情緒をとりもどすために思いつく限りのことをした。

1、南向きの部屋で日光を浴びる 光線療法じゃい! 2、半身浴 3、紙に情緒を書きなぐる 4、2010年ごろのツイッターって感じの、誰も聞いていないときのひとりごと的ツイートを連続投下

「2010年ごろのツイッター」、書いてからいや、それどんなよと気になって検索してきたけどなかなかののうみそ無濾過たれ流しぐあいだった。

画像3

画像2

みんなこんな調子だったのよ
たしか


2021年だけど↑くらい中身のないつぶやきしてほんの少ーし元気になった。内容のないこと発信すると落ち着くんだわたしは。不思議と。

あした起きたらとつぜん世界が輝いてみえたらいいな。はは。気持ちの急降下と同じくらい唐突に理不尽に気持ちの急上昇も訪れてくれたらいいんだよ。遠慮すんなよって思う


1月上旬 | 1月下旬

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?