見出し画像

●2021年9月の日記 【上旬】

9月1日(水)

寒い。ベランダのトマトも戸惑っているように見える。同じくベランダのいちごは明らかに様子がおかしくて、白い花を次々に咲かせている。9月だけどいいのか? いちごがいいなら、いいのか…。わたしは花々の受粉を手伝う。

今日ははじめて鉄道博物館に行く友だちを誘って、3さいの子どもも連れて、鉄道博物館に行った。施設は空いていた。学校の夏休みも終わったし、平日だし。
子どもの運転するミニ電車に乗ったのが楽しかった。3人乗りの成田エクスプレス。うちの運転士さんは警笛をずっと鳴らし続けていた。独特の音がした。

鉄道博物館だけで解散するのが名残惜しく、友だちが見つけてくれたコメダ珈琲へ。「コメダのアホな飲み物のみたい」「わかる」。

アホな飲み物をすすりながら友だちに親族まわりの話などをきいてもらい、癒された。話すうちにわたしは基本的に薄情な人間なのだなあという気づきがあって、今さらなにも情の深い人間ぶる必要もないな(そもそも無理だし)、と思って勝手に楽になった。

アホなスイーツも食べたかったが胃袋にそこまでの余力がなかった。残念。アホなスイーツはシロノワールの呼び名。賛辞を込めている。

9月2日(木)

きょうも寒い。渋谷区に行った。仕事をした。お腹がすいてパンを買った。ベンチで食べたかったが、雨降りで食べられず。

9月3日(金)

久しぶりに夫と子どもとわたし、3人揃って外に出た。夫の両親の家をたずねるためだ。電車は3路線を乗り継いだ。仕事でふだんからあちこち移動の多いわたしは乗り換えの鬼であるので、コンコース内やホーム上をずずいと先導した。うしろに子どもを抱いた夫が続いた。

乗り換えのとき、わたしが責任を持って預かっていた子どもの傘を、車内に置き忘れた。

子どもはずっと祖父母に会いたがっていた。それがようやく叶うというので昨日から「あと1回ねたらおじいちゃんおばあちゃんのうちいける?」と張り切っていた。最寄駅まで車で迎えにきてくれた祖母に対しても「おばあちゃんきてくれてありがとう」と礼を欠かさない優等生ぶりであった。

夫の母の焼いてくれたハンバーグを子どもはわたしと同じだけ食べた。さらにつけ合わせのにんじんのグラッセも食べることで祖父にも祖母にもよろこばれていた。野菜を食べる幼児は尊ばれる。

一番風呂をわたしと子どもとでもらった。夫が気兼ねなく両親と込み入った話をするなら今だろうと思い、なるべく子どもとの入浴を引き伸ばそうと試みた。しかし長風呂好きの子どもはそういうときに限って「ぼくもうでるね」などと言い、早々に切り上げようとするのだ。すごい。結局10分程度しかもたなかった。でも、あとで夫にきいたらするべき話はちゃんとできていたらしい。あの短時間で。話の早い親子だ。

布団を敷いて暗くした部屋で子どもが眠るのを見守ったあと、わたしはスマホを見ながら横たわっている。いまは横向きに寝て下になっている左の耳が、階下で夫とその母が話す声に小さくふるえている。音は振動だ。この家に泊まって、夜遅くに夫と夫の母が話しているのを感じるとき、いつもなぜだかほっとする。

9月4日(土)

昨日から泊まっている夫の両親の家で、子どもは5時半に起床した。目が覚めて外が明るいと、それが何時であれ、彼の「朝認定」がおりてしまう。「もうあさだねえ、おきないとねえ」。

3さいに手をひかれて泣く泣く階下のリビングへ行き、小さな音でトトロの録画を再生した。

少しして6時になると、子どもの祖母がもう起きてきて、手作り生地のピザを焼き(!)、パンをトーストしてくれた。

9時前に子どものいとこである5さいの子が両親と小型犬とともにやってきた。彼女はリュックいっぱいに子どもに貸してくれるための玩具を選んで詰めてきていた。
小型犬はいつも、よそ者であるわれわれに対してたいへんに威嚇的であるのだが(夫も子どもも噛まれて血をみたことがある)、今回はソファの上でしんなりしているばかりだ。「もう齢だから」ということだった。こちらが動くのにいちいち反応して吠える、いつもの騒ぎがなくて済むのはありがたいが、これまでとのあまりの違いに心配になる。小さな動物は人間の早回しみたいに老いる。

夫と両親、そして夫の妹は揃って病院に出かけた。夫と妹の父の病状について説明を受けるためだ。

わたしはみんなが病院から戻るまでの間、5さいの子とトランプをしたり、彼女の父親の車で駄菓子屋に連れて行ってもらったりして過ごした。子どもたちとかくれんぼをしたのが楽しかった、わたしも留守番をする子どもになったみたいで。

夕方にはそれぞれの家に帰ることになった。5さいの子は別れが嫌なようすで、玄関に行くのをずるずると引き延ばしていた。わたしも彼女と別れるのを名残惜しく感じていたのでよくわかった。車で帰っていく彼女とその家族を見送ったあと、われわれも電車で帰宅した。電車に乗って間もなく子どもは深い深い眠りに埋没し、帰宅後もそのまま眠りつづけたので、彼をふとんにおろしてわたしと夫はビールを飲んだ。夫が病院で聞いてきた話のいくらかを共有してもらいつつ。「おつかれさまでした」と言い合って早めに寝た。

9月5日(日)

硬いうどん好きの友だちとわたしおすすめの硬いうどんを食べに行ったつもりがあんまり硬くなくてしょんぼり。「前は硬かったんだよ、ほんとうだよ…」と責められてもいないのに弁解したい気持ち。

食後のコーヒーをサンマルクで飲みつつおしゃべりをした。子どもも一緒だったのだが、彼はわたしに抱かれたままずっと眠っていたので、ゆっくりと話ができて嬉しかった。途中、とりとめない雑談のつもりでわたしたちの身の周りにいたモラハラ人間のことなど話すうち、「わたしたちの中のモラハラ気質」がくっきりと浮かびあがってきたのがおそろしかった。気づき。人と雑談をする中でしか気づけないことがある。

子どもが起きたから商店街で菓子を買って近所の芝生で食べることにした。友だちも芝生についてきてくれて、すごい勢いで蚊に刺されていた。虫除けをしてもなお、子どもより刺されていてかわいそうだった。蚊に刺されやすい人というのは信じられないくらい刺されるものだ。わたしも10代くらいまでそうだったから実感としてわかる。今はあまり刺されないので不思議だ。

やわいうどん屋に連れていったり、蚊だらけの芝に誘い出したり、友だちにはなんだか悪かったなあと思った。彼女と別れたあと、「でも楽しかったなー!」と声に出して帰りの自転車をこいだ。チャイルドシートにぽーっと座る子どもからとくに返答はなかった。

9月6日(月)

いつもの美容院の予約がちっとも取れず、その間にもわたしの毛髪はうねりを増していくので、我慢できずに他で縮毛矯正を受けることにした。髪がまっすぐになればなんでもいい、という思いで、枠の空いていたサロンに予約をねじ込んだ。

なんでもいいとは言ったけれど、担当になった美容師と絶望的に話が合わず、合わないのに放っておいてももらえず。つらい3時間となった(縮毛矯正にかかる時間は長い)。美容師は美容師界隈のあるあるを話し、推しのラーメンについて話し、にんにくの臭さについて話した。その間ずっと、美容師のマスクは口とアゴだけを覆っていた。

つらい時間を乗り越えたあと、毛髪が無事にまっすぐになったので甲斐があった。美容師について友だちにLINEでぐちり、共感してもらって、救われた。コメダ珈琲でどら焼きとカフェオレを頼んで自分をなぐさめた。

子どもを迎えにいったとき、女性の教諭が「おきれいです」とわたしの直毛をほめてくれた。「おきれいです」だって…。いろいろあったけど髪をまっすぐにしてよかった。

9月7日(火)

借りていた本が返却期限当日ということに気がついて残りをあわてて読んだ。

太田啓子『これからの男の子たちへ』

これは育児本コーナーによくある「男の子はこう育てろ」的な本(げろろ〜)ではなくて、世に言われる"男らしさ"、"女らしさ"って生まれつき脳とかに備わってるものじゃなくて、実のところ子どもたちを取り巻くわたしたち大人が作ってるものなんじゃない?どーする? っていう視点を持っているところに特徴がある本だとおもう。

同じ視点を持つ本としては既に、レイチェル・ギーザ著『ボーイズ』がある。『これからの男の子たちへ』が男の子たちがより性から自由に生きていけるよう願いをこめてその背中を押す本だとすれば、『ボーイズ』は男の子たちに伴走する本だ。多くの専門家に話を聞き、調査を読み込み、知識に裏付けられた力強さをもって男の子たちが社会に直面していく過程に寄り添う視点を持っている。わたしは断然『ボーイズ』派だ。

しかし、日本国内でもこういう視点(男らしさってかなり作られるものじゃない?)を持つ本を書いた人がいること、その本が書店で大々的に並べられるようになったことがすごく心強くて、最高だなと思った。あと、収録されている3本の対談が大変素晴らしかった。「男の子」当事者だったことのある男性との対談も「男の子」当事者を育てる母である女性との対談も、希望があった。

わたし自身、3さいの男の子と暮らす上で周りの大人たちからかけられる無邪気な偏見を含んだ声がけ(ex.『男の子はやんちゃなくらいでちょうどいいですよ』『乗り物好きだねえ。やっぱり男の子だね』など)に首を傾げることが多く、子ども自身がこれらの影響を全く受けないで育つのは不可能だよなあと悩ましく思っている。それに、子どもと生活している親のわたしだって、男の子に無自覚な偏見のひとつやふたつ、絶対に持っているだろう。放置すればそれらは確実に子どもの価値観に組み込まれていく。大人の偏見のいくらかを子どもに継承してしまう。だから、わたしにとってこれは急ぎ取り組まなければならないテーマなのだ。

9月8日(水)

幼稚園に行く子どもに持たせるおむすびをむすぶついでに自分用にも2つむすんで仕事先に持って行った。仕事で今日はチャイナドレスを着て午前、午後とポーズを取った。わたしは美術モデルの仕事をしている。

昼休憩は1時間ないし、チャイナドレスで外食もなんだから、更衣用に用意されたパーテーションの内側でおむすびをもそもそ食べた。わたし今チャイナドレスでにぎりめし食べてる…と思ってにやっとした。

ずっと同じ姿勢で止まっている仕事だから、終わったあと建物から出て歩くのが至福のときだ。風を切って歩く。

家にチャイナドレスを置きに戻ってすぐ、子どもを園に迎えにいくときは、雨が軽く降っていた。自転車で進むわたしの頭上を二羽のコサギが滑空していた。見上げて顔が濡れた。

9月9日(木)

乗り換えタイムアタックの日。
仕事①と仕事②の間にきっかり1時間しかなく、開催場所もそれなりに離れているので、移動にかかる時間を極力削るために乗り換え時のダッシュが大切になってくる。そういうわたしひとりの競技だ。チャレンジ2回目の今回はなかなかうまくいった。ホームからホームへのルートを前回で把握済みのため効率的に走れた。仕事②の会場にはあらかじめ遅れるかもしれない旨伝えてあったのだが、10分前には到着。達成感。
乗り換えタイムアタックは気疲れするが、なんだかんだいって好きなんだと思う。

9月10日(金)

新橋の近くまで仕事で行ったものだから、「御菓子司 新正堂」に寄ってみることにした。新正堂は大正から続く老舗和菓子店で、「切腹最中」が有名だ。

「最中にたっぷりの餡を込めて
切腹させてみました。」

わたしはこのときちょうど、子どもを生んだときの帝王切開の記憶をnoteにしたためていた。それで新橋の地を踏んだとき、以前一度食べたことがあるだけの「切腹最中」を唐突に思い出したのだろう。わたしは医療に手厚く守られて切腹を遂げた人間である(自分で切ってないけど)。切腹経験者(?)として改めて切腹最中を見てみると、どてっとしたフォルムも、たっぷり詰まって飛び出さんばかりの餡も愛おしく思えてきた。シンパシー。

キャッチーな名前もさることながら、この菓子はしっかり美味しいからおすすめである。餡は甘さひかえめで、中心には食感のよい求肥も込められている。ボリュームがあって朝食にもいい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?