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芸術の言語化は野暮か
映画、音楽、絵画、彫刻、演劇。
私の周りはたくさんの芸術で溢れている。
それらがもたらすあらゆる刺激は、私の五感に訴えかける。
芸術は国境を超える。たとえ言語が通じなくても、感覚にもたらされる刺激は人々を熱狂させる。
同時に、芸術がもたらす刺激を言葉で表現するのは難しい。いくら言葉を選んでも、あの五感で感じた経験を、蘇らせることはできない。
百聞は一見に如かず。たとえ説明に一万文字を費やしたとしても、曲のイントロを聴いて鳥肌が立つ、あの一瞬の感覚さえもたらすことはできないだろう。
「芸術を言語化することは野暮だ」とよく言われる。
説明するより、とりあえず見てみてくれ、聴いてみてくれ、と言った方が感覚を共有しやすいからだ。
しかしそれでも、言語化は必要だと思う。
それは、芸術を言語に置き換えて説明するためにではない。
自分の感覚の証明のためにである。
不思議なもので、芸術はそれを受容する人々の数だけ生まれる。他人が見ているものが果たして自分が見ているものと同じなのか、証明するすべはない。同じ絵画を見て、ある人は悲しい気持ちになれど、別の人は喜びを見出すかもしれない。
もっと言えば、芸術はそれが受容された回数だけ生まれる。1人の中でも、その時の気分、欲求、体調によって作品は姿を変える。それまで全く興味がなく聞き流していた曲を、ある日聴いたら突然涙が溢れてきた、なんてこともある。
つまり芸術がもたらす刺激は、非常に不確かなものなのである。
だからこそ、大勢の人々に寄り添い、明日を生きる活力の源となることができる。
一方で言葉は、確かな意味を持って私たちの前に現れてくる。それを発信した者、それを聞く者、読む者の間で意味が変化することは殆どない。(詩や小説などの、芸術性に重きを置いた作品は別)
そこに言語化の理由がある。芸術によって生じた不確かな感覚を証明するために、我々はそれを言語という確かな媒体に置き換えようとするのである。その感覚が本当に存在していた、という証明のために。
それを野暮と言うか、喜ばしいことだと思うか、は人それぞれだと思う。
私はどちらかというと、感じたことをなんでも言語化して記録したくなるタチである。
「この色使いが」「この間奏が」などと、逐一言葉にしていると時々「作品を台無しにしているのではないか」と思う瞬間がある。
私の文章でこの作品の良さを伝えられるとは到底思えない、と言語化を諦めた瞬間も数多くある。
しかし、私は言語の可能性を信じたい。
私の言葉を見て、聞いて、誰かが作品に興味を持ってくれたら、それってとても嬉しいことだから。
あと、もしその作品を作り出した芸術家が生きているならば、貴方の作品を見てこんな気持ちになりました、と伝えたいのである。
そんなことを考えながら、今日も、もくもくと言葉を紡ぐ私であった。。。
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