【サンプル公開】『六条院紫手習始』第一話・内記と小紫
前口上
さて、今年の大河ドラマ『光る君へ』。
雅やかな平安の貴族社会を描きつつ、御堂関白家が栄華にいたるようすと『源氏物語』を著すにいたる(であろう)紫式部ことまひろを描いたドラマとして、週末ごとに盛り上がっているようですね。
私自身、平安初期から中期への過渡期に起こった政治改革を、菅原道真の視点で描いた『あるじなしとて』(PHP研究所)を出版していますし、期待しながら物語を追っています。
さらに。
「歴史を楽しむ会」さんが発行している『わいわい歴史通信』の小説欄では、幼少の紫式部を題材としてショートショート連作『六条院紫手習始』を連載もしています。
『源氏物語』の元ネタに関する考察はさまざまありますが、今回注目したのは、同作中に光源氏の理想郷として登場する邸宅「六条院」です。
六条院のモデルには、源融が営んだ河原院や摂関家邸宅の東三条殿などが挙げられます。なかでも、紫式部が生きた時代の六条の豪邸と言えば、後中書王こと具平親王が営んだ桃花閣が有名でした。
邸宅の主・具平親王は、光源氏のモデルのひとりと言われる人物で、皇族ではありましたが政治的な立場になく、もっぱら文事で名を遺した人でした。
彼の邸宅には当時、出世の目のない文人たちが集い、文人サロンを形成していたと言います。紫式部の父・藤原為時もそのひとり。
そもそも紫式部と具平親王は、かなり遠くではありますが、縁続きでもあります。
幼いころの紫式部も、父に連れられてサロンにいた可能性がなくはない……というところから、本作の着想は生まれました。
そしてもうひとりの主人公・慶滋保胤もまた、具平親王のサロンにいた代表的な文人でした。
この人物、『本朝文粋』などに名を遺す文人であり、また『今昔物語』などでは"滑稽なほどの仏教狂い"として描かれるほど、熱心な仏教徒として語り継がれました。
面白いことに、彼の父は賀茂忠行。史上最も有名な陰陽師・安倍晴明の師匠にあたる人物です。
保胤は家業の陰陽道を捨てて、紀伝道を選んだというわけですね。
まだ幼い紫式部、そして複雑な背景を持つ初老の文人・慶滋保胤。本作は、そんなコンビが織り成す物語となっております。
『わいわい歴史通信』さんのご厚意により、第一話をサンプル公開いたします。ぜひ試し読みしていただき、雰囲気を感じていただければ幸いです。
そしてよろしければ、本紙ご購読もぜひご検討ください。
ではでは、以下より作品をどうぞ。
『六条院紫手習始』・第一回「内記と小紫」
平安の都は六条西洞院に、京童も羨む絢爛な邸宅がある。文事の才にあふれ“後中書王”と名高い具平親王の住まいであるその邸には、京中の文人たちが己の風雅を示そうと集い、一種のサロンとなっていた。
その東の対、書庫として使われている塗籠にひとりの少女がいた。年のころは十に満たず。童髪に埃をまとわりつかせ、何かを探すように蔵書を次々とひっくり返している。
「これ、そこな小さなお人」
戸口から少女に声を掛けたのは、細い眼をした五十絡みの男である。
「先ほどから随分と騒々しいが、何事です」
「名乗りもしないかたに、お教えする道理はありません」
年の割にしっかりとした返事をすると、少女は剣呑な瞳で男を睨み返した。その何ともこましゃくれた姿に、男は露骨に顔をしかめてから腰を下ろすと一礼した。
「……わたくしは、宮様の侍読を仰せつかっております、慶滋と申します」
「まあ、あなたが賀茂内記保胤さま!」
少女が口にした名に男は……慶滋保胤は、大人げなく仏頂面をした。一方の少女はそれまでの険しい目つきはどこへやら、目を好奇心に輝かせて保胤の前に座る。
「わたくしは藤原式部丞の娘、宮さまには小紫と呼んでいただいております」
ああ……と、保胤は納得半分の声を出した。少女の父と彼は文章博士・菅原文時の私塾に通う同輩で、具平親王の詩文の友でもあった。
「内記さまは、どうして陰陽道のお家を出られたのですか?」
確かに、保胤は陰陽道の大家である賀茂忠行の次男だったが、若いころに家業を捨て、姓を変えてまで文章の道に入ったことは、文人の間ではよく知られた話ではある。
そんな、分別のある大人なら聞きにくいであろうことを、小紫はずけずけと問うた。
「内記さまも、式神やまじないを使えるのですか?」
「式神など、所詮は人の心が生み出した幻に過ぎません」
「では、なぜ文章のほうへ?」
「陰陽は一時の夢。しかし文章は不朽の盛事と言うでしょう」
「経国の大業ですものね!」
ふたりが引用したのは、文事を興隆したことで知られる魏の文帝の言葉である。それをまだ稚い少女が知っていたことに驚きつつも、保胤は質問攻めに辟易として少女から目を逸らした。
「小紫もいつか、物語を書きたいと思っているのです! そしたら宮さまが、日本紀を読んでおきなさいって」
「……日本紀は貴女の右手の棚、上から二段目にありますから。どうぞ、そこからお持ちになるとよろしい」
保胤の言う場所を小紫が覗き込むと、確かに『日本書紀』の巻子本が詰まっている。
「小紫はこんなに持てません」
当然のように少女が言うので、保胤はため息をつきつつも、小紫と合わせて五巻の巻物を両手に抱え、塗籠を出た。
時刻はすでに夕暮れ。東の空は一足早い夜の藍色に染まり、六条院にも夕闇が降りはじめていた。
「あ、賀茂内記さま。戸を」
ほくほくとした顔をしていた小紫が、ふと後を振り返った。保胤がその視線を追うと、開けっ放しの塗籠が暗い口を覗かせている。
保胤はもう一度ため息をつき、巻子を抱えたままの右手で二本指を立てて、空を撫でるように指先を滑らせた。
誰が触れることもなく、木戸がするりと閉じた。
「私は賀茂ではなく、慶滋です」
そう言うと、保胤は目を丸くしたままの少女を置いて、さっさと廊下を進んでいく。
「……慶滋内記さま、いまのは」
聞かれた保胤は振り返りもせず、素っ気なく返した。
「夢幻ですよ」
――寛和二年四月。このとき出会った少女が、後世に「古典の中の古典」と呼ばれるほど物語を書くことになろうとは、保胤は知る由もなかった。
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