起こること

今起きていることを、とにかくどうにかしよう、どうすれば良いんだ、どうにかしなくちゃ、と右往左往していたこと、してしまっていることに気づくこの頃です。
 簡単に言うと『起きることは必然です』と色々なところで見聞きしてきたけれど、人は自分にとって良いと思うことにはこの法則を適用し、苦しい、辛い、嫌だ、という自分にとって悪いと思われることについては適用しない。悪いと思われることに対しては、必至にどうにかしようとしてみたり、または逃げたりしてしまっていると思うのです。
心がもやもやしたり、辛かったり、悲しかったり、胸がきゅーーーーっとなる状態を逃れたいがために、解決しようとしてしまう。
 先日、ご近所さんの対応がおかしくなりました。夫が最近しばしばキレるのですが、キレ方?に対する異様さを感じたのでしょう。あの家族変、関わらないようにしたほうが良いと思ったのかもしれません。この推測すら間違えかもしれませんが、感覚として今までと対応が違うということだけはハッキリと感じました。またこの対応について私たち夫婦だけに対するものであればよいのですが、そうは問屋が卸しません。子どもにまでもこのような対応になっていたことを感じました。
とてもショックだったし、つらくて悲しいと感じました。
“あぁそのご近所さんに謝りにいって、人の気持ちは変えられないから私たちは嫌いでもよいけど、せめて子供たちには今までのような対応してくださいと言いに行こうかな”なんて考えたり。
“あぁ嫌われたからもう気にしないことにしよう”としてしまったり。
いろいろと心が落ち着かない日々を過ごしていました。
自分にとって嫌だと思うことって続くんですね。
子どもが、大切にしていた少し高価なものを無くしました。
その瞬間、何かが切れて、良いとしていたご近所さんへの感情があふれてきました。辛い、悲しい、なんでそんなことをするんだ、自分ならしない、、、、、、、いろいろいろいろ
そして、あぁまだこの出来事にしっかり向き合って受け止めきれてなかったんだなと感じました。
頭の中で論理的に整理した(つもり)になっていたんだなと気づきました。
なぜつらいのか?それは人に近寄らないほうが良い人間とされてしまったこと、今までの『ちゃんとした』人だという立場がなくなったと感じたこと。
→他人からの評価が気になる。ちゃんとしているとは?世間のいう、求めるちゃんとっぽい人ということ。そうなりたいのか?
なぜ悲しいのか?自分たちのせいで、純粋な悪いこともしていない子供まで無視する対象となってしまったこと。→もちろん自分たちの行いが作ったことではあるが、相手がどう受け取るかは相手次第でもある。
なぜ自分ならしないのにと怒りに似た感情を持つのか?
→そのように相手は幼稚な、心の狭い人間、体裁人間なんだと蔑みたかったのではないか?ただ単に事実だけではなく、そこに自分が正しい、自分はそんな人間ではないという気持ちの高揚感が欲しかったのではないか??

などなど。
感情は思考が作っている。悲しい、つらい、イライラする、、、これは自分の中にある思考から発生している感情なのだということを理解しようとして、自分の気持ちに問いかけた作業をしてみました。

起きることは、その人にとって必要だからこそ起きるのです。

その意味をしっかり受け止めて、つらいけれども、いやなこと、悲しいことも含めてしっかり味わえれば、また違う視点の自分が生まれるのではないかと思います。

今私がしていることは、この『気づく』ことです。
そこから一歩が始まると感じています。
これが人生の旅なんだなという実感だけは感じている毎日です。

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