初学者による 中近世ヨーロッパの宗教と政治 第3章 遥かなるローマについて 2

 こんにちわ。乾虎徹です。

 大分前に宗教史の話を勉強しようとして色々本を買い込んだ後に某宗教団体の人がうちに勧誘しにきた事がありまして、一体どこで嗅ぎつけたんだろう?って思いながら「うち結構です」って言った覚えがあります。

 さて、それは脇に置いといて、前回の続きです。

前回記事はこちら
初学者による 中近世ヨーロッパの宗教と政治 第3章 遥かなるローマについて 雑感 他|乾虎徹|note

 今回お話するのは教会の行政的な役割って何だろうという話です。

 さて、同著にはスヴェッレ王のプロパガンダ的著作「対司教駁論」において、こんな記述があります。長いのでちょっとかいつまんで要約します。

 キリストその人はその体の頭であり、教会が四肢となる。身体の目は司教、鼻は大助祭、耳は主席司祭もしくは司祭長、舌は司祭、体の心臓と胸となるのは王である。

(何言ってんだこいつ)

 と思った方、ご安心ください。私もその一人です。因みに国家や社会を体の構造に例える事はよくあったそうで、その機能不全により無秩序が現れるというのは12世紀西洋で良く論じられた話だそうです(※1)。この頃の解剖学はどうなっていたのか。或いは各部位の序列はどうなってたのか、気になりますね。
 んでもって、それぞれの体の部位において

1.司教(目)は迷う余地のなき正しい道を示すべき存在。及び他の構成要素に気を配るべき存在。
2.大助祭(鼻)は聖なる教会の、正しく、甘美なるあらゆる匂いに気づき、かぎ分けなければならない。
3.主席司祭、司祭長(耳)は聖なる教会に関する案件や紛糾する事件に耳を傾け、その弁護を行う。
4.司祭(舌)は我々に対し正しい信仰を解き、また司祭自身もその行いによって善を示さねばならない。
5。王は思考については熟考しつつも大胆な決断を行い、その他全ての体の構成要素を庇護すべき存在である。

(ちょっと分かるけどやっぱりわからねぇな)

 って感じになりますね。そもそも司教、司祭なぞ宗教に全く馴染みのない日本人にはどれがどれやらさっぱりです。ただ、組織の構成論としての話なのはちょっと理解できるだろうか、という所です。
 最終的な決断をするのは王であり、その王の判断要素として各部位が存在し、頭となるキリストを支える、といった思考なのだと思われます。となれば序列は王>その他各部位、と同著の主張では言えそうです。

 ところで、各部位の序列ですが、載っていないものも含めると以下のようになっています(以下15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史より引用)
 司教>司祭>助祭>副助祭>侍祭>祓魔師>朗読者>守門

 因みに司教は別格として中世においては司祭・助祭・副助祭は上位、侍祭・祓魔師・朗読者・守門は下位となるようです。後世この制度は一部改正された(※2)ようなので、今では馴染みのない役職もあります。

(まぁ元々馴染みないんだけどな)

 これらの役職を束ね、役職を与えるのが司教の役目です。因みにローマ教皇も元をたどればローマ司教となります。

 4世紀にローマがキリスト教を受容してから、各行政区(キヴィタス)の首都に司教が置かれ、その下にこうした序列が誕生したようです。
 5世紀以降司教座は行政組織としても確立し、今でいう公共福祉を担う役割を話したようです。キヴィタスにおける住民同士の諍い、橋や道路の整備等。人が多く集まるところに田畑も集まり、収穫物を販売する市場も形成されます。フランク王国においては司教座は政治的・軍事的な役割を担ったとのこと。

 つまるところ、4,5世紀頃における司教とは今でいう所の知事も兼ねていたように思われます。その下で働く官僚達がいわば司祭・助祭らではないだろうか、と思う訳です。司教区の中に新しい農村が生まれると、司祭が任命されてその地区を担ったと言われています。

 ところでキリスト教はその布教にあたり、制度面において冠婚葬祭の制度を通じて広めていったと言われています。洗礼はキリスト教に入信させることを指しますが、カトリックは幼児洗礼を行い生まれた時からキリスト教徒にしています。男女の結婚に際し司祭がミサを挙げ祝福し、葬式では終油と言って死者に油を塗り、天国に行けるよう儀式を行うと。

 人口動態を把握するのに凄い良い制度ですよね。人の生死を村毎に司祭が把握できる訳ですから。そりゃ政治と直結するわ、と思います。公共福祉に利用する為の税金を徴収するには、これらの把握は欠かせないでしょうし。

 農村部に司祭が居て、それらを補佐する助祭が居ます。各農村部の司祭以下を束ねているのが司教であり、前回でも述べましたが管轄する司教区の中でもめ事が起きた時に相談するのがいわば世俗諸侯らであったと言えます。諸侯らは聖職者達の任免権を握っており、同時に司教らの相談相手でもありました。そうなれば時に今風に言って癒着なども起きえたでしょう。

 この聖職者らを任免する権利を聖職叙任権と言い、これらが大きく問題になったのが11-12世紀であると言えます。これが任免できるか否かでその地方に持つ影響力って大分変わりそうですよね。

 ここで最初の「対司教駁論」に戻るんですが、この著作はローマ教皇の存在意義を認めつつ、司教や司祭達は王であるスヴェッレ王への流言を教皇に吹き込んでる、けしからんという体で作られた著作です。
 12世紀ー13世紀ノルウェーにおけるスヴェッレ王と司教らの対立については、司教らの上に実質的に誰が立っているのかが揺らぎつつあった時代と密接な関りがあったんじゃないかな、という風に私は考えています。

(同著読み解くのむずすぎワロタ)

 こっからは雑語りみたいな感じ。

 しかし、聖職叙任権闘争ってこうしてみると地方に対する影響力に直結する話だと思う訳で、そうすると12世紀以降どうやってこの世俗君主からその辺りもぎ取ったのか、或いは妥結したんでしょうね。まさか任免させてくれ、なんて言えばおいそれと譲る訳も無いし。
 後、教皇から見た王の立場と、諸侯から見る王の立場なども気になるところですわな。そもそもこの時代国家という枠組みってどのように認識されててたのかとも。ナショナリズムやらエスニシティの話はもうちょい後だし、今の論じ方だと近現代的さが否めないなぁと。ぶつぶつ。

※1……国家有機体説。ソールズベリのジョンらが有名(国家有機体説 - Wikipedia
※2……詳しくは叙階 - Wikipedia

 参考文献は前回に同じなので割愛。

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