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渡部昇一流『四書五経』の解釈 238

😈 道は近きにあり  (『孟子』離婁上)

🌏  道は爾(ちか)きに在り、しかるにこれを遠きに求む。事は易きに在り。しかるにこれを難きに求む。

やるべきことは身近にあるのに、それが遠くにあるようなことをやっている。
易しくできることがあるのに、わざわざ難しいことをやっている。

たとえば「万葉集」を読むのに学者が議論している読み方にこだわり、
学者にも解けない歌ばかりにこだわっている初心者もいる。

難解なものは相手にせずに素直に読めばどうか、
と教
えるときなどに使える言葉である。


【2024年4月21日(日曜日)雨時々曇り14℃〜19℃】


人間社会が対立から融和に変化することがあるのだろうか?
しかし、私にはそれが現代ではないかと思えるのである。
人間はいつから対立して生きるようになったのか?
それは世界に歴史が生まれた時からのような気がする。
歴史はなぜ生まれたのか?
それは人間が記録することを思いついたからだろう。
なぜ記録する事を思いついたのだろうか?
自己に目覚めたからだろう。
では、それまでは自己に目覚めていなかったと言うことなのか?
意外にそうなのかもしれない。
人はある枠内で生きていたのではないかと想像するのである。
例えば村単位のような地域がたくさんあったと考えられる。
それまでは人が殺し合うようなことはなかっただろうと考えられる。
では、争いの原因はなんだっただろうか?
考えられるのは食べ物だ。
「聖書」にはアダムとイヴが禁断の果実リンゴを食べてから人は罪人になったと書かれている。
そう、誰かが禁断の罪を犯したからだろう。
以来、人の世界には法を守る人と法を守らない人とに分かれたのだ。
そしてそれが対立の始まりだろう。
それまでは人は争うことをしなかっただろう。
釈迦が生まれた時にはすでに戦争は在り、常に戦乱でした。
釈迦はそのような社会を変えたいと願ったのだ。
王子の座を捨ててまでそのような思いに至ったのはなぜか?
釈迦もまた自己に目覚めた人だったのでしょう。
ソクラテスも言いました。「汝自身を知れ』と。
が、ソクラテスは法に殺されました。
「悪法もまた法なり」と言って毒杯を呷ったのです。
法は人間社会が誕生したと同時にあったと考えられます。
では、本日もつつがなくお過ごしくださいませ。
ありがとうございます😄


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