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【長編小説】ダウングレード #33完

「安慶名、具合でも悪い?」
 顔を上げると沖が真正面から顔をのぞき込んでいる。
「いや、別に」
 耀は打ち合わせのメモに視線を戻した。
「じゃあ、変更点はこれだけだな? 読むだけなら問題ないけど、難しい質問きたらいつものように安慶名が回答よろしくな」
「ああ、……いや、やっぱり今日は質問は沖が答えて。あ、……いや、やっぱりいつも通りでいいよ」
 沖が眉根を寄せた。
「お前今日変だよ。何かあった? 今日の説明会、地元のフリーペーパーが取材に来るんだろ? その件で何かあるのか?」
「何もないよ。沖が答えられない質問が来たら俺が答えるから、問題ない。説明会終わってから何枚か沖の写真を撮るらしいから。じゃあ、今日もよろしくな」
 耀は立ち上がり、ホールの中の座席を確認し始めた。沖は講壇の近くにスタンバイしている。
 バラバラと参加者がホールに入り、開始時間十分前にはほとんどの参加者が座っていた。
 カジュアルなジャケットにジーンズ姿の三十代くらいの女性が入ってきて、耀に近づいた。
「フリーペーパーDDの吉永です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 耀は名刺を交換しながら、視線の端で吉永の後ろにいるカメラを肩に掛けた女性を確認した。
「撮影担当の奥原です」
 吉永が後ろの女性を紹介した。紹介された奥原和佳は、耀に対し黙ってペコリと頭を下げた。耀も静かに頭を下げた。
 時間になり、見学説明会が始まった。沖がF市の現況と目標、達成率などを滑らかに語っていく。要所要所で笑いも取り、ホール内の雰囲気は和やかだ。今日も参加者は学生が多く、二人から三人でグループになった制服姿が目立つ。沖が通路を歩きまわり女子高生たちのそばを通る度、沖に視線が集まっているのが分かる。いつものことだが、ほとんどの女性は沖の前に出ると沖をうっとりと見つめる。
 今回は特に難しい質問も出なかったので、沖が想定問答集から適切に回答した。説明会が終了すると、いつもの様に女子高生たちが行列をつくり沖と握手してうれしそうに帰って行った。
 参加者が全員出て行くと、吉永がメモを取りながら沖に質問をいくつかした。それから和佳が沖の写真を撮った。レンズを変えて沖の正面から近寄り、連続してシャッター音が鳴った。
「専属の撮影担当さんなんですか?」
 沖が輝くような笑顔で和佳に話しかける。その笑顔にもシャッターを切りながら、和佳は「いえ」と答え、迷うように「雑用でも何でもやります」と言った。
「編集さんの仕事はそんな感じでしょうね。大変でしょうね」
 沖が腕組みして笑う。和佳はそのポーズも撮った。それからカメラのディスプレイで写真を確認すると吉永の方を見た。
「今日はありがとうございました。それでは今日はこれで失礼します。原稿ができましたらチェックのためにお送りしますので」
 吉永が沖と耀にそれぞれ頭を下げた。和佳も合わせて会釈した。二人は荷物を確認してホールを出た。
「カメラさん可愛い子だったね」
 沖がブラインドを下ろしながら言った。
 耀の返事がないので沖は振り返った。
「安慶名?」
 耀は座席の間にゴミが落ちていないか屈んで確認しながら、実際には目の前の情景はまったく目に入っていなかった。
 ホールのドアが開いた。覗くように傾けられた顔は、和佳だった。耀ははじかれたように立ち上がり、はずみでイスの端に思い切り膝を打ち付けた。ガンという大きな音が響いた。
 和佳はその音に驚いたように目を見開いた。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫」
「耀さん、あのね、私このまま直帰していいって言われたから、今日の夕飯は私が作るね」
 沖が「え?」と声を上げた。
 耀は胸のあたりがむず痒くて、思わず右手でネクタイを触った。和佳が沖に会って心を奪われるのではないかと心配していたが、和佳は変わらずまっすぐ耀を見ている。
「じゃ、じゃあ、ちょっと待っててよ。俺も定時で帰るから一緒に帰ろう」
 和佳はコクンと頷くと「裏の公園で待ってる」と言ってドアを閉めた。
 閉まったドアを耀は見つめた。
「どういうことだよ。安慶名!」
 硬い腕が顎の下にがっちりはまって締め上げた。
「く、苦しい……」
「夕飯ってどういうこと? 同棲してるわけ?」
 ギブ、ギブと沖の腕を叩きながらしばらく締め上げられた後にようやく腕が離れた。
「安慶名、説明しないと今日は帰らせないぞ」
 沖がニヤニヤしながら座席の一つに腰掛けた。耀はため息を一つついて、諦めて近くの座席に座った。
「一緒に住んでる」
 沖が満足そうに笑った。
「なんだよ。早く言えよ。前に言ってた子か? 良さそうな子じゃないか。結婚するのか?」
「どうかな。俺はそのつもりだけど。この春から専門学校に行く予定だから、結婚なんてまだ先だよ」
「何の専門学校?」
「写真とデザイン」
「さっきのフリーペーパーはバイトなのか」
「一応契約社員だよ。夜間高校に通ってたけど無事卒業したんだ」
「もしかして学費を安慶名が?」
「二人でだよ。俺がローン組もうと思ったけど、先にある程度貯金してからアルバイトしながら払いたいって言うから。この一年半倹約して金貯めてたんだ」
「それでお前毎日弁当持参だったんだ」
「そう。けっこう涙ぐましい努力をして貯金してるんだ。電気もどうしても必要な時しかつけないし」
「なんだそれ。暗い中に二人でいるってのかよ。楽しそうだな」
 そう言えばそうだなと思った。最初は和佳の徹底した倹約ぶりに息苦しい感じもしたが、慣れてしまえば何ということもなかった。寝る前の短い時間、電気も音楽もない部屋で、ろうそくに火を灯してふたりでぼんやりと過ごすのが日課だった。話をするときもあれば、黙ったまま過ごすこともある。暗闇の時間を思い出して、和佳の肌が自分の腕に触れた感触が蘇った。
「安慶名はいいよな」
「何が?」
「あんな可愛い恋人もいるし。菅原部長にも可愛がられて」
「部長は俺を癒しグッズと思ってるだけだよ」
「それでもいいじゃないか。菅原部長、最近随分柔らかい雰囲気になったってみんな言ってるよ。俺も体内水分調整やってほしい」
「お前の周りはいつも人がたむろしてて、そんな時間ないくせに」
「そんなことないよ。安慶名が時間をとってくれるなら、俺はいつでもその時間を空けるよ」
「うそつけ。お前のスケジュールはいつも詰まってるだろ?」
「はは、わいわい騒ぐだけで同じことのくりかえしだよ」
「沖は、本命を一人に絞らないのか?」
「……俺が誰かに近づきすぎるとその子がすごい攻撃を受けちゃうんだよね。だから常に等間隔を心がけてる」
 笑っている沖の口元がわずかに下がった。
「……じゃあ今度やってやるよ。調整」
「やった! 約束だぞ。ついでに安慶名の家で飲むってのは?」
「それは却下」

 庁舎を出て、耀は公園へ走った。ベンチに目を走らせ、次にぐるりと見回した。隣接する資料館の敷地との間にある石垣の上に見慣れた後ろ姿を見つけた。奥に向けてカメラを構えている。近づくとシャッター音が聞こえる。
「和佳」
 和佳は振り返って耀を見た。
「何撮ってるの?」
「耀さんも上がってきて」
 ちょうど背丈ほどの石垣だが、革靴で上がれるか一瞬躊躇した。鞄を肩から斜めがけし、片足を出っ張った石の上に置いて、反対側の手で少し上の石を掴んだ。さっき打ちつけた膝が少し痛む。
 和佳がかがんで手を差し出した。あまりに滑らかな動作だったので、耀は何のためらいもなくその手を掴んだ。想像よりもしっかりと引き上げられ、耀は石垣の上に登った。
 急に視界が開けた。資料館の奥に続く遊歩道が眼下に見える。遊歩道の桜並木の上に、沈む夕日の赤とグレーのグラデーションが広がっていた。薄暗く、桜は色では目立たないが、桜独特の沸き立つような存在感が静かに月の光がでるのを待っている。
 連写の音が、断続的に響く。
 一緒に暮らし始め、毎日繰り返されるスケジュールに慣れた頃、和佳はようやく話せるようになった。それでも時折不安定になることがある和佳の精神状態を、耀は辛抱強く支え続けた。耀は自分が和佳を守らなくてはと思っていた。けれど今では、逆に耀が和佳に守られているとさえ感じることがある。さっき石垣の上から和佳が手を差し伸べたように、和佳の言葉や行動が、耀を力づけ支えている。菅原の言う通りだ。
 耀は横にいる和佳の手を握って軽く引き寄せた。和佳は軽く笑って、肩を耀の腕に持たれかけた。
「きっと今なら誰だって救えるな」
 耀は自分から延びた金の光の帯が遠くまで届くところを想像した。
「何の話?」
 へへ、と耀は笑って、和佳の手をもう一度強く握った。
 耀と和佳は、雲の中の赤色が完全になくなるまでずっと空を見つめていた。



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