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「余命1ヵ月」の宣告、若くしてあの世へ逝った母と過ごした最期の1ヵ月の話

「胃がんが全身に転移して、余命1ヵ月だと言われました」
母から来た突然のメールに、仕事中だった私は、事務所で声をあげて泣いてしまった。それは暑い日差しが照りつける、私23歳、母53歳の7月の第1週目だった。

静岡で働いている私に会いに、父と母が車で愛知から来る途中に、母の体調が悪いからと、私の知り合いの方が院長をしている静岡の病院に寄ったときに発覚したのだった。

久しぶりに会った母は痩せ細り、「人間ってこんなに痩せることができるの!?」と思うぐらい、腕は骨と皮だけと言っても過言ではなかった。

父と母が愛知に帰っていった翌日、私は院長に呼ばれて病院へ行くと、「あなたのお母さんはスキルス性胃がんで、進行がとても早い。胃は内側も外側もがん細胞で盛り上がり、胃の機能は全くしていない。それが左肺に転移し、左肺には水が溜まり、現在、右肺のみで息をしている。また、お腹にもがんが散らばり、腹水が大量に溜まっている。
がんは転移していたら、血液を通って全身に回っていると考えられて、もう手術はできない。あと1ヵ月もつかどうか、あなたは今すぐ家に帰りなさい。自宅療養で過ごすことになると思うが、最後は痛みとの壮絶な闘いになる」

私は会社に1ヵ月の休職を申し出、実家で母の介護をすることにした。車いすに乗せて外を散歩し、大人用オムツを替え、お風呂で髪の毛や体を洗い、胃を素通りしても腸で消化吸収できるような優しい料理を作り...と最期の1ヵ月を共に過ごした。母は歩くことも動くこともできないくらい、痛みと闘っていた。

仰向けにも寝られない。仰向けになると、左肺に溜まった水が横に流れて右肺を圧迫し、右肺の呼吸できるスペースが少なくなってしまうため、呼吸が苦しくなるらしい。常に体を起こした状態で眠っていた。

私は思った。母は苦労の多い人生だった。子どものころは熊本の山の中で両親と5人兄弟で暮らし、戦後だったためかとても貧しく、小学生のころは給食費が払えずに先生にビンタをされ、それでも家にお金がないことが分かっていたので、親にも言えずに耐えていたそうだ。

愛知で就職して結婚したが捨てられて離婚し、住むところが無いのでかつて会社の同期だった私の父の家に転がり込んだ。まもなくして私が産まれたが、予定日より2ヵ月も早く破水して未熟児で産まれてしまったため、「離婚後300日問題」にひっかかり、私は母の前夫の戸籍に入ってしまった。父の戸籍に入るために、前夫と家庭裁判所で争いDNA鑑定をし、私は2歳のときに父の戸籍に入った。
子どもとはこわいもので、私はそのときの母の言葉、「疲れた。もう家庭裁判所には行きたくない」という言葉の意味を理解できていたし、今でもその光景を覚えている。

そんな私は夜泣きが激しく、母は父に気をつかって夜中に私をおんぶして外の夜道を散歩する日々だったそうだ。

そして、あるとき父が母に暴力を振るっていたのを、2、3歳だった幼い私が体をはって止めたことがあった。幼いながらに、肩を震わせて泣いていた母を守ったことを覚えている。それ以降、父の暴力はなくなったような気がする。

私が小学生のときに、母は卵巣のう腫で両方の卵巣を全摘出する。手術後は「焼けた炭をお腹に入れられているような痛みだ」と言い、のたうちまわるほどの痛みに必死に耐えていた。

そして、私は中学生のころに反抗期になり、暴言を吐き、母はとても悩んでいたそうだ。(ごめん)

母は卵巣全摘出の後遺症でホルモンバランスの調整ができなくなり、更年期障害に苦しむ。体が熱くなり汗が出るらしい。

そして最後は胃がんになり、肺に水が溜まり片肺のみでの苦しい呼吸、横になれない苦しみ、腹水の重み。歩けない、動けないほどの痛み苦しみに耐え続けるつらさ。

亡くなる2週間前に家から最寄りの病院で診てもらったときには、母抜きで医師と会話をしたのだが、「血中のタンパク質の濃度がかなり低い。これはがん細胞が増殖するのにタンパク質が使われているから。これでは本人の肉体が維持できない」
「タンパク質をとればいいですか?」
「いや、タンパク質をとればとるほど、がん細胞が増殖する」
「どうしたらいいのでしょうか...」
という会話を、私はついに最後まで母に打ち明けられずに、心が葛藤しながら、タンパク質が取れる食事を作り続けていた。

今思い返してみても、母は決して幸せな人生ではなかった気がする。とても苦労の多い人生だった。「何か母にしてあげられることはなかったのだろうか...!」と娘の私も悔いる気持ちしかないほど、苦しみばかりでかわいそうな人生だったと思う。

そして、母が亡くなる前日、父と交わした最期の言葉は、「お父さん、再婚していいからね」だった。父の幸せを思って身を引く気持ちが表れていた、切ない。

その日の真夜中2時、母の隣で寝ていた私は、「誰か〜...!水〜!」と言う母の声で目が覚め、(すきっぱらに水を飲むと、がんの胃にしみるから、何か食べた後じゃないと水は飲まないのに、何でこんな時間に...?)と不思議に思いながらも、ペットボトルの水にストローをさして渡し、水を飲んだ母はめずらしく左を下にして体を横にして寝て、ゼーハーゼーハーと肩で息をしていた。

(え?かなり危ないんじゃないの...?)と思いつつ、私も横になって母の背中をさすりながら、いつの間にか寝てしまっていた。

朝7時、父の「お母さん!お母さん!......死んでる!」という声で目を覚まし、死後硬直で固まった母の姿に、(ついにこのときが来てしまったのか)と、意外にも落ち着いて服を着替え、医師に電話して自宅へ来ていただいて死亡診断書を書いてもらい、父はそれを持って葬儀場へ行き葬儀の段取りを組み...と事を進めていった。

お悔やみに来てくださった母の知り合いに、夜中の母の水の件を伝えると、「人は亡くなるとき、水が飲みたくなるって聞いたことがあるよ」と言われ、そうだったのか!知らなかった!知っていたら絶対に寝なかったのに、と思った。

気が張りつめた状態で、通夜、葬儀が終わったその晩、父は浴びるほど酒を飲み、呂律のまわらない声で「お母さんがいないと生きていけない!」と号泣した。

私も布団のなかで「お母さん、どうして死んじゃったの?」と幼い子どものように泣きじゃくった。

2ヵ月ぐらい、毎晩布団のなかで過呼吸になるほど泣いた。父は酒の量が増え、常に手が震えるようになっていた。
(※今はもう治っている。そして再婚もしていない)

苦労の多かった母の人生に、幸せを与えてあげられなかった自分にずっと後悔があった。もっと思いやりのあるいい娘であればよかったのにと。

しかし、今、私にも小さな娘が産まれて、その小さくてか弱い存在が腕のなかにいてくれるだけで、温かく幸せな気持ちになった。
私もその存在だけで、孤独だった母に幸せを与えられていたのだろうか?

母が亡くなる1週間前の言葉。
「子育てしているときが、一番楽しかったな。だから、あこちゃんも子どもを産んで育ててね」

お母さん、私今、子どもを育ててるよ!目元が私というより、なんだかお母さんに似ているよ!
お母さんとお話しできないのが寂しいけれど、時間の流れとともに、それも受け入れられる自分になったよ。
私が80歳ぐらいであの世に逝くときには、お母さんが真っ先に迎えに来て、「60年ぶりだね!」って、いろんなことを笑って話そうね。

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