風を掴む
「私、カモメになりたいの」
妹は言った。
その時は俺もあまり深刻には考えずに、ふーんと軽く受け流しただけだった。
数日後、コツコツと不思議な音でノックしてから部屋に入ってきた妹の姿を見てぎょっとした。
「私、カモメになっちゃった」
妹はカモメになっていた。
それはどこからどう見てもカモメであった。流れるような曲線。つるりとした真っ白の羽毛。思いのほか小さな体躯。紛う方なきカモメであった。
「どうしてカモメなんかになっちゃったの」
何かやんごとなき事情でもあったのか。それとも人間をやめるほど追い詰められていたのだろうか。兄としてそれを見定められなかった自分を呪いながら、俺はふんふんと──いや、キュウキュウと鼻歌を歌う妹に問いかけてみた。
「〝なんか〟じゃないよ。かもめ〝なんか〟じゃ」
そう言いながらくるりとこちらに身体を向けて、大きく翼を広げてみせる様子は、どこか陽気なものである。
「風を掴んでみたかったの」
妹は言った。
〇
妹がせがむので、カモメとなった彼女を肩の上に乗せながらぶらぶらと外を散策する。カモメの目と人の目では、景色が違って見えているのだろうか、妹は何でもないはずの道端のちょっとした光景にも、一々キュウキュウと反応した。
「ところで妹よ、どうして自分で飛ばないんだい」
そう問いかけると、カモメの妹は俺の肩の上で大仰に胸を膨らませた。鳩胸というやつだろうか。鳩ではないけれど。
「まだその時ではないのだよ」
自信満々の口調。はあ、と俺はマヌケみたいな相槌を打つしかない。妹は始終上機嫌だった。
そのまま何ともなしに歩き続けて、やがて広い公園の芝生にさしかかった時だった。
「お兄ちゃん、飛ぶね!」
肩に軽い衝撃だけを残して、あれという間もなく妹は上空へと飛び去って行く。瑠璃色の空の上にぽつんと塩のかけらをこぼしたみたいに、カモメの妹は小さく見えた。あんなに遠くにあるものが、今の今まで俺の肩の上に乗っかっていたのだから不思議だ。
キュウー、と妹の満足そうな鳴き声が聴こえる。あの高い空の上から、妹はどんな景色を見ているのだろう。
俺は目を閉じて想像してみた。カモメの妹と一つになって、大空を舞う様を想い描いてみた。
上も下も、右も左も、全てが蒼く広がった世界。びゅうびゅうと風の音が通り抜けていって、羽毛を撫でていく。遠くに見えるビルの群れや山の峰。あぁ、あそこまで行ったら一体何が待っているのだろう。行ってみたい。見てみたい。遠くまで、行けるところまで!腕に力が入る。翼が広がる。
そしてくっと、翼が風を掴む。ぐいっと身体が持ち上がる。通り過ぎていくだけだった風が、今は実体となって俺の手に中にある。今俺はこの手に、この翼に、風を掴んでいる、掴んでいる、掴んでいる──
急に怖くなって、俺は目を開けた。どしんと勢いよく地面に叩きつけられた感覚がして、俺の意識は妹と切り離された。
慌てて空を見上げると、まだ妹は円を描きながら飛んでいる。
俺は、どうか届きますようにと願いながら、思いっきり叫んだ。
「戻って来ォォォォォい!!」
カモメになった妹は、ゆっくりと旋回しながらふわふわと降りてきて、そしてやがて、再び俺の肩に収まった。
俺は、ほっとした。
まだ目の裏に、蒼い景色が焼き付いている。どこまでも続く空と、遠くに広がる未知の景色。
俺が見た景色は幻だったけど、幻で良かったと思った。でなかったら、多分、俺は何処かに行ってしまっていたと思う。
帰り道、しっかりと足に伝わってくる地面の感触が、とても安心した。
だから、多分、人間は空を飛べないのだな、と俺はそう思った。
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