2021年度戯曲賞を振り返って-AAF、劇作家協会、かながわ短編演劇アワードを中心に

『2021年度戯曲賞を振り返って』-AAF、劇作家協会、かながわ短編演劇アワードを中心に
天乃こども

1.はじめに

 2021年度の戯曲賞について少し話したい。私はかつて演劇をしたことがあり、いま戯曲よりも小説を書こうとしている者である。また、私は芸術のみならず、芸術を批評するという営みを愛している。だからこそ、こうして書かなければならなかった。
 2019年と2020年、私生活に様々な事情があり、私は戯曲賞についてあまり気にかけていなかった。2021年に入り、久々に戯曲を書いてみようと思って、出すことにした。それをきっかけに、AAF戯曲賞、劇作家協会新人戯曲賞、かながわ短編演劇アワード戯曲コンペティション、それぞれの公開審査会を視聴した。
 結論としては、「戯曲賞における批評のレベルは低い」ということだ。これは以前より思っていることだ。しかし、特に、「戯曲とは何か?」などという問いを掲げているAAF戯曲賞の審査があまりにも表層的で、浅い議論しかなされなかったことは絶望という他ない。また、レベルが低いというのは、私の価値観による絶対評価でもあるし、その他の文学賞の選評と比較しての相対評価でもある。例えば私はSFが(にわかに)好きなので、日本SF大賞の選評をここ10年くらい読み続けているし、創元SF短編賞の選評もいくつも読んでいる。それらと比べても、お話にならない。あまりに主観的な評価と、その評価をなぜか絶対的なものとした議論に終始することも多い。また、そうではない人もいるが、戯曲賞の審査を務める人の多くは言語化能力が低く、視野が狭い。よって、自らが賞に推薦する作品についても、ろくに言葉を持っていないこともある。それっぽい一般論を並べてごまかすこともしばしば見られる。
 いずれにしても、私は嘆いている。演劇界の批評のレベルというのは本当に低い。戯曲賞に限らず、高校演劇の審査であったり、学生演劇祭の審査であったり、また小劇場のコンクールでもそうだ。念のため申し上げておくが、ここでは、演劇の雑誌や新聞等における劇評やレポートについては言及しない。それについても色々思うところはあるが、雑誌を買う余裕がなく、ほとんど追えていないので広く語ることが出来ない。
 それでは、今年度私が審査会を拝見した三つの戯曲賞についてそれぞれ思うところを書き、比較検討をしていく。ただし、これは詳細なレポートを書こうとするものではないので、戯曲賞の候補作について解説するなどはしない。また、基本的にマイナスの点ばかりを書いている。良かったことについてはほとんど書かない。これを読んで、こんなところが良かったと思うならば、ご自身で発信していただいたらと思う。そもそもあまり審査会が見られていないという問題はあるが、では、それは何故なのか、考えてもらいたい。
 これからAAF戯曲賞、劇作家協会新人戯曲賞、かながわ短編演劇アワード戯曲コンペティションの順に書いていく。これらにおいて審査員の発言を取り上げるが、それが全くの事実誤認であった場合、ご指摘いただけるとありがたい。その後、その他の戯曲賞についての雑感と、今後について考える。

2.第21回AAF戯曲賞

 さて、こちらについては、概ね誰からも評価が低いと見えたので、改めて語るほどではないが念のため触れておく。アーカイブが残っているわけではなく、選評やレポートが公開されているわけでもないので、記憶を頼りにして少し書き進めていく。
 まず、「上演を前提とした」と掲げて募集をしているのにも関わらず、審査会において、それがほとんど議論されなかったことだ。例えば鳴海康平氏の「書いてあることで評価すべき」という意見に関してもそうだ。いや、一応触れておくと、戯曲の評価というのはそもそも難しい。文学としての評価と、上演台本としての評価がある。また読み手の読みとしても、文学的な立ち上がりと、演劇的な立ち上がりがあり、それを明確に自分のなかで線引きすることは難しいだろう。「ものすごく上演の臨場感があった」と言っても、他の人もそうであるとは言えない。それが自らの演劇経験による想像力によるものなのか、丁寧に上演が浮かび上がるように戯曲にしっかり書き込まれているからなのか、評価の難しいケースもあるだろう。けれども「上演を前提とした」と掲げているのならば、「書いてあることで評価すべき」は流石におかしいのではないか。もちろん羊屋白玉氏の受賞作に対する独自の解釈に説得力があったとは思わないが、しかし、それが上演においていかに立ち上がるかを検討することは、この戯曲賞において大前提の大切な営みではないか。その点について、あまりにも意識が低かったように思う。
 次に、そのように双方の意見が噛み合わないまま、同じような議論が何時間も繰り返された。これは公開審査会として、見せ物としての意識にあまりにも欠けたものであり、どんよりとした空気は映像を通しても伝わってきた。私以外の視聴者もどんよりとした気持ちになったという報告を見かけた。時間制限を設けると、そのために結果を無理やり急いで議論が閉ざされるという不幸も起き得るのだが、それにしても、あのような不毛な時間になるならば制限があったらと思うのも無理ない感想だろう。
 続けて、AAF戯曲賞には大賞と特別賞がある。ここで、特別賞の二度目の受賞はアリなのかという話が公開審査会で行われた。言うまでもないことだが、そのような話は事前にしておけという話だ。パフォーマンスとしてあらかじめ構成されているならばともかく、聞いた限りとてもそうは思えない。そのようなことは公開でやることではない。話の流れとしては、一度「二度目の特別賞受賞はナシ」という流れになったにも関わらず、司会が「過去に二度の受賞をした人がいます」と言うと「アリ」になった。……は? 賞を与えるということについて、どう思っているのだろうか。鳴海氏は「自分は賞を貰ったことがないので、半端な気持ちで決めたくない」という旨の発言をされていたが、口だけだと言う他ない。特別賞を審査員がいかに考えているのかをしっかり議論すべきではないか。しかも、同戯曲賞に初めて参加した審査員ばかりではないのだ。にも関わらず、なんとなく方針が変わっていく様は、見るに耐えなかった。
 もう一つ、岩渕貞太氏の選任について。「上演を前提とした」戯曲賞に、あえてダンサーの岩渕氏を呼んでくるのだから、それが活かされた議論になるかと思われた。しかし結果は、「ダンスのコンテストではこういうことがあった」というものくらいで、意見をコロコロと変え、岩渕氏は推薦する作品について自分の確固たるものがあまりないと見えた。それは私の感想だとしても、最終的に受賞作を決める段階においても、「クオリティとしては危うい」ということを強調して述べるなど、この戯曲賞における議論としては非常に下らない意見を繰り返してしまっていた。
 さて、長くなってしまったが、これは絶対に触れなければならない。鳴海氏が「受賞作がこれで責任取れますか」と言い、羊屋氏が「責任は取りませんよ」と言ったことだ。このような発言がなされると誰が予想したことだろうか。責任を取るべきかどうか、そもそも取るとはどういうことかについては議論の余地がある。けれども、「責任をとらない」と公開審査会で明言してしまうことの暴力性は、指摘するまでもないことだ。これは受賞作とその作家に対して失礼であるだけでなく、戯曲賞に応募したすべての作家、これから応募しようとしているすべての作家に対する侮辱だ。
 最後に。この戯曲賞には、大変失望した。「戯曲とは何か?」「演劇とは何か?」「上演を前提とするとはどういうことか?」このようなことについて考えていくのは、大切なことだ。演劇というものについて特に疑いもなく、既成概念だけで作られた演劇や戯曲に価値がないわけではない。そして、それを疑い、問い続ける作品の方が優れているわけでもない。そこに優劣の差はない。けれども、AAF戯曲賞というものは、既成概念を問う作品に対して豊かな議論を行う場であったはずだ。新たな才能を拾い上げる場でもあったはずだ。応募者は、多かれ少なかれそれぞれに上演について考えてくる。その想いを踏み躙るような審査会であったことが残念でならない。

3.第27回劇作家協会新人戯曲賞

 私はこの審査会に先立って、すべての候補作を読み、感想を書いた。

 自分としてはかなり短い期間で読んで書いたので、十分ではないところが多々あるだろう。けれども、もし仮に私がこの準備期間で、最終審査員として最終審査会に臨み、講評をしたとしても、他の審査員と遜色ない批評・議論が出来るとも思った。
 この審査会においては、AAF戯曲賞程のとんでもない状況は見られなかった。一方で、公開されている選評をお読みいただければ分かる通り、批評に説得力がない。選評に赤ペンを入れるとキリがないが、今回はひとまずそれはしない。また、視野の狭い審査員もおり、単純にレベルが低い。審査会としては作品の比較検討など、豊かな議論になっていたので見応えがあった。議論が広がっていく、作品によっては価値をどんどん広げていくような審査会になっていた。しかし、それはどちらかというと「見せ物としての審査会」が良かったという評価でもある。演劇上演の評価で例えるならば、上演は面白かったがテキストには瑕疵があった、というような感想になる。
 審査員それぞれの発言において、気になった点をいくつかピックアップしてみる。
 例えば、渡辺えり氏は『エーリヒ・ケストナー -消された名前』について「私はケストナーさんの本をたくさん読んだ。この戯曲に書かれていることを本当にケストナーさん言ったのかどうか」というような内容を少し怒るような口調で言っていた。気持ちはわかる。けれども評伝劇において問うべきは「本当に言ったかどうか」ではないはずだ。あくまで大切なのは、その戯曲内において、どのような文脈でそれらの台詞が話されているのか、またそのひとつひとつは構造としてどのような意味を持つのかということであると考えている。もちろん、作品全体が目指しているものが、その人物を取り上げるに相応しい手付きかどうかは検討されて然るべきだろう。しかし、審査員が「こんな書き方は許せない」と言わんばかりの物言いは、態度としていかがなものか。「本人の言葉か、作家の言葉か」それを問うのは、問うべき地点にまで審査員の側が達してからではないだろうか。取り上げている題材の勉強をすることは、真剣に取り組もうとしている証ではあるが、そこにのめり込んで目の前の作品が見えなくなってしまっては意味がない。
 次に、佃典彦氏は「私は一人芝居がそもそも苦手、小説とどう違うのか分からない。これは一体誰に話しかけているの?」という内容を問いかけた。後から考えると、これが佃氏の本心ではなく、議論を誘発するための言葉だったのではないか、とも思った。けれども、やはり聞いていた感覚としては「何この人は? 審査員としてそんなことを聞いてて恥ずかしくないの?」という気持ちになった。さて、対する返答としては、川村氏が「こういうのはドイツとかでもよくある」と言い、渡辺氏が「(語りかけているのは)演劇の神様かもしれない」続けて坂手氏が「それは宇宙でもいいし」などがあった。これ自体は聞いている分には面白かった。とはいえ、「分からなかった」ことはそれぞれにあるとしても、流石にそのくらいのことは自分で考えてある方向の答えを用意しておくべきではないか。作品に対して誠実に向き合って準備してきた者の発言とは思えなかった。
 もう一つは、『ナイトクラブ』に対して、瀬戸山氏は「面白く読めた」と言い、評価をしていたのだが、一方で佃氏が「自分は読んでてキツかった」と言った際に、そこから議論が広がっていかなかったことだ。「面白く読める」かどうかが、全く重要でないとは思わない。しかし、それがなぜ面白く読めるのか、面白く読めないのかについては考えてくるべきであるし、その感覚が作品にとって重要なのかそうでないかも検討する必要があるのではないか。あまりにも主観的な意見が交わされていて、「私はこれが好き」「俺はこれが嫌い」と言っているのと大して変わらないように見えた。もちろん、「なぜ面白く読めるのかが分からないが、面白く読めるので可能性を感じる」でもいい。けれども、その評価に、十分な説得力のある言葉を持ってくるべきだ。なぜ、どのような立場から、あなたはそれを評価する必要があるのか。もっと踏み込んで欲しい。そうでなければあなたが評する意味がない。
 さて、選評に赤ペンを入れることはしないと言ったが、どうしても少し触れさせて欲しい。

 この中で、私は川村毅氏の選評に大変問題があると感じた。まず、「補足が選評の役割」という意見には強く反対する。何故ならば、公開審査はアーカイブに残っているわけではなく、誰もが見たものでもなく、選評というものが一つの記録の役割を果たすものであるからだ。実際私は十何年も前の劇作家協会新人戯曲賞の選評を読んでいる。演劇などしていなかった頃、当時どのような作品がどのように評価されたのかを見ることが出来る。ここには大きな価値がある。何十年も先、あるいは何百年も先においても読まれること。芸術の批評はそのようにして意味を持っていくものでもある。「審査会で言ったから繰り返さない」という態度は褒められたものか。「作家は気分が良くないだろう」批評は気分のためにあるものなのか。私には、川村氏が「いま、選評を書く能力がろくにない」ことの言い訳をしているようにしか思えない。
 また、川村氏の各評についても疑問がある。「真摯な志を持っている」とは具体的にどのようなことなのか。戯曲賞の最終審査に残るような作品は、そのほとんどがそれぞれに「真摯な志」を持っているだろう。具体的に他の作品と比べてどのようにその「真摯な志」「高い志」なるものが秀でていたのか、語らなければそれは評と呼ぶに値しない。また、「文体を獲得している」についても、それでは『荒野 Heath』も文体を獲得していると思えたし、他の審査員の語り口からもそのような評価であったと思える。要するに、川村氏が下した評価には、その選評をもって説得力のある評価となっていない。このような態度であるから「去年の作品群の中にあったら」などという失礼かつ下らない評を書くのであろう。あまりにレベルが低くお話にならないので、次年度から審査に関わらないでもらいたい。
 また、2020年度のものになるが、第26回においての坂手洋二氏の選評にも問題がある。

 さて、私は『春の遺伝子』と『いびしない愛』の2作同時受賞を考えていたが、今回の司会者・川村毅氏は、かつての審査会で何度かそうだったのだが、「2作同時受賞」を認めない派、の人だった。それでまあ、仕方ないかと思ったのだが⋯⋯、当の川村氏が、閉会間際、受賞式の終わり頃に、「2作同時も今回はありかと思った」と言うではないか。早く言ってくれよー、である。
 ただ、河合さんは、これからも確実に傑作を書ける人である。今回は残念だったが、楽しみは先に、とっておきましょう!

http://www.jpwa.org/main/activity/drama-award/517 (参照2022-03-28)

 選評にこのような文章を書いていいと思っているのだろうか。はっきり言って、ふざけている。賞を選ぶということの責任を他人に転嫁するような物言いで、戯曲賞の受賞というものを「楽しみ」と矮小化する。このようなことを少なからず権威ある協会が主宰する賞において、選評という場で、ずっと残り続けるものとして、書いてよいと思っているのなら本当に話にならない。この回については、わかぎゑふ氏による選評も読んでいただければ分かる通り論外であるが、ともかく名前だけで審査員が選ばれてろくなことにはならないということである。
 以上、少し話が逸れたが、劇作家協会については、司会進行の能力が高かったために審査会の質が向上していたという印象だ。選ばれている審査員の批評や作品への態度については大変レベルが低く、どうしてこのような人たちが応募者の投票で選ばれているのか疑問でならない。他項目でも触れるが、協会員でも黒川陽子氏や、田辺剛氏など、受賞歴もあり、もっと批評に向いている人物がいるだろう。

4.かながわ短編演劇アワード2022 戯曲コンペティション

 これを書くために3月31日まで公開されていたアーカイブを文字起こししようと考えていたが、さまざまな事情があり叶わなかった。スケジュールの都合もあったとはいえ、この点はエリア51の神保氏のようなタフさがなく、非力に思うばかりである。というわけで、これも直近ではあるが記憶を頼りに書き進めていくこととなる。
 この催しはむしろ「演劇コンペティション」部門の審査会が少し炎上した。私も後からアーカイブで聞いたが、酷い発言をした審査員もいるが、それにしても司会が酷すぎる、という印象だ。司会進行が誠実に行われていれば、前述の劇作家協会新人戯曲賞同様に、審査会としてはまだ好印象のものになっていたであろう。これについては、概ね他の人が語っていることに付け加えることはないので、これ以上詳しくは書かない。
 では、戯曲コンペティションの審査会は良かったのか。一部ではそのような認識もある。けれど、私はそう思わないし、そのような評価ではならない、と考える。各審査員がそれぞれ戯曲に対して述べた批評は、他の戯曲賞と比較しても、しっかりすべての作品を読み込んで、作品に対してそれぞれの向き合い方としては誠実に話されている、ということが伝わるものであった。念のため、演劇コンペティションの審査会の方が10倍くらい酷かったとも申し上げておく。何故か直近であるこの賞についてが思うところ多々あり要点がまとまらず、これから抽象的な内容や、ぐだぐだとした展開が続くことをご容赦いただきたい。容赦できなければ読み飛ばしてもらって構わない。
 戯曲コンペの何がいけなかったのか。大きくは2つある。1つは、「作品の比較検討・審査員間の議論があまりなされなかったこと」である。もう1つは、「募集テーマ、審査基準である内容が、審査会において十分に議論されなかった」ということだ。
 まず、1つ目について考える。例えばある作品に対してこのような理由で評価したならば、この作品についてもこのようなことが言えるのではないか、ということが当然ある。そういった議論になっていかず、各審査員がどう思っているかを述べ、好きなものに投票する、という形になっていた。これでは、結局その審査会におけるマジョリティの意見が通るということになる。そういう戯曲賞もあって構わない。けれども、このかながわ短編演劇アワードは、Twitterプロフィールにこうも書いている。

演劇の既成概念を打ち破るような演劇を求めて

https://twitter.com/magfes_tanpen(参照2022-03-29)

 にも関わらず、審査会で語られたことは既成概念ばかりである。そうして既成概念に囚われた審査員たちによって、戯曲それぞれが持つ個性豊かな取り組みが「切り捨て」られていくような印象の審査会であった。審査員間の議論については、例えば『たちのぼる』に対して、まず松井氏、西尾氏、瀬戸山氏、大池氏が、おおむね否定的な評価を述べた。内容としては、「体温がたちのぼるという言葉選びがよくない」「台詞が頭で書かれている」「思考実験みたい」というような内容であった。それに対して、稲葉氏は演出家として「演出心をくすぐられる」と言った。そこまではいい。その後第一回投票となり、『たちのぼる』は得票がなく、以降議論されることはなかった。それでいいのだろうか。稲葉氏の意見を受けて、その他の審査員は何も言うことがないのか。もしそうであれば非常に視野が狭いと言わざるを得ない。台詞が頭で書かれていると読める、けれど、それが演出心をくすぐるのならば、そこに演劇の豊かさがあるのではないか。もちろん文面からそのまま読み取れない内容をどこまで解釈して評価すべきかは議論の余地があるが、それにしても、評価するしない以前の問題で、明らかに議論が不十分である。「思考実験的」であることの何が悪いのかを考える必要がある。また、瀬戸山氏の「最も他者がない戯曲だと思った」ということについて、そもそも「他者がない」という言葉が何を指すのかを掘り下げる必要があるのではないか。瀬戸山氏のこちらの言葉も引用したい。

従来の戯曲賞って「戯曲とはこうだ」ってことが意外と最初から決まっていて、審査員の中の“戯曲観”みたいものがしっかりできあがりすぎている印象があったのですが、本アワードではそんな“戯曲観”にまったくとらわれていない戯曲が最終候補に残っているし、逆に「なぜこの作品を戯曲賞に応募してきたのだろうか」というようなところから審査員たちと話ができるのは、すごく面白かったです。「かながわ短編演劇アワード」のように、固定観念にとらわれない戯曲賞がもっとあれば面白いな、と思います。

https://natalie.mu/stage/pp/kanagawatanpen2022/page/3 (参照2022-04-02)

 まさに、戯曲観が最初から決まっているような審査会だったと思うが……。例えば『そこに猫がいるのよ』『これフライパンだからいいでしょう』という小説のようにも読める作品を、いったいどのように評価するのか。演劇という枠組み、そして戯曲賞という枠組みが、どのように受け入れるのか。また、演劇として上演すればどのような意味を表象し得るのか。そういったものを問いとして投げかけるだけでは意味がない。問いを立てただけで考えたことにはならない。それぞれ真剣に向き合っていた審査員もいたが、議論として展開しなければ深まっていくことはない。観客が候補作品を読み、感じたものを超えていかなければ、候補作品が打ち破ろうとしているものを引っ張り上げて評価することは出来ないだろう。引っ張り上げたうえで受賞に至らないのは仕方ないが、まず、そうして戯曲が目指そうとしているものを議論の俎上に上げる力が、審査会にないと感じた。
 次に、「募集テーマ、審査基準である内容が、審査会において十分に議論されなかった」ということ。私が最も問題と考えているのはこの点である。これについては、募集要項から、応募規定の一部と審査基準を引用する。まず、応募規定については、

4)応募規定
・「ともに生きる〜多様性の時代に生きるということ〜」をテーマとした作品であること。
・多様性を尊重する時代だからこそ、「ともに生きる」について深く考えてみる。 神奈川県の重点施策である「ともに生きる社会かながわ憲章」を直接の素材とするもの に限らず、それぞれが感じる・考える、「ともに生きる」をテーマとして解釈できる作品を広く審査対象とします。

https://www.pref.kanagawa.jp/documents/78956/gikyoku_boshuyoko.pdf (参照2022-04-02)

また審査基準は以下となる。

5)審査の際に基準とする主な点
○募集テーマである「ともに生きる〜多様性の時代に生きるということ〜」という考え方が感じられるもの
○社会性や時代性が感じられるもの
○表現に独自性を感じられるもの
○これから活躍や発展が感じられるもの(年齢制限を設けるものではありません。)

https://www.pref.kanagawa.jp/documents/78956/gikyoku_boshuyoko.pdf (参照2022-04-02)

 以上の二つを踏まえて、全くもってそれに応えられている審査会ではなかった。これは募集要項に明確に書かれている"事実"である。これを無視した、あるいは十分に応えられていない審査会であることは、応募者に対して誠実ではない。もちろん、これが「募集要項であるから一次審査の基準であって、最終審査の基準ではない」ということも考えた。しかし、それはおかしい。企画書→上演となる演劇コンペならまだしも、戯曲というのは一次であろうが最終であろうが評価されるものは同じものだ。にも関わらず一次では審査基準となるが、最終では審査基準が変わりますというのでは滑稽だろう。もちろん基準というのは候補に並んだ作品の比較検討によって柔軟に変わっていくものである。けれども、少なくとも、募集要項の基準を読み、テーマについてそれぞれに向き合った応募者に対して、応える義務があるだろう。応えられないならば審査基準やテーマの設定が間違っているか、審査員の選定が間違っている。あるいはその両方である。
 また、「ともに生きる〜多様性の時代に生きるということ〜」という募集テーマについて、審査員の方々が真剣に向き合ったのか、疑問でならなかった。このテーマについては色々と考えることがある。まず、このテーマの元となっている「ともに生きるかながわ憲章」について確認する。

平成28年7月26日、県立の障害者支援施設である「津久井やまゆり園」において19人が死亡し、27人が負傷するという、大変痛ましい事件が発生しました。
(中略)
このような事件が二度と繰り返されないよう、私たちはこの悲しみを力に、断固とした決意をもって、ともに生きる社会の実現をめざし、ここに「ともに生きる社会かながわ憲章」を定めます。

http://www.pref.kanagawa.jp/docs/m8u/cnt/f535463/index.html (参照2022-04-02)

  この事件は、「優生思想」「優生学」の考えが根底にあるというのは、一般的な見解だろう。この「優生思想」は「反出生主義」と混同して考えられることもある。正確には両者は全く別物であるが、「反出生主義」のうち、"苦しみを最小化する"ネガティブ功利主義の考えからは、例えば段階的に人類を絶滅に至らせるとしても、「まず、より苦しみを生み出す、障害のある人から減らしていこう」という考えが導かれる可能性がある。実際にこのような考えをしている人はいるだろう。
 さて、なぜ「反出生主義」という言葉を出したかというと、これが審査会で触れられたからだ。瀬戸山氏が『そこに猫がいるのよ』のコメントをしているさいに、「非出生主義」と発言した。これについて私としては看過できない。現在一般的には「反出生主義」で定着しており、また、日本における反出生主義研究の第一線にいる哲学者・森岡正博氏が2014年に一時的に「非-出生主義」という言葉を使ったが、現在これは使われておらず、誤用と考えていいだろう。例えばTwitterなどを検索してみると「非出生主義」という言葉を用いている人は少なからずいるが、少なくともアカデミックな場で用いられていることは前述の森岡氏の件以外では見当たらない。試しにCiNiiでも検索してみたが見つからなかった。私は反出生主義者ではないが、反出生主義について根源的なところでは共感をし、様々な論文や著作を読み、そこから自らの思想についても探求しているところなので、反出生主義という言葉が雑に扱われてしまったことは我慢ならなかった。
 また、「昔はそうではなかったが、最近は非出生主義など、生まれることを肯定的に捉えない考えが見られる」という文脈で語られていたと思うが、これは誤りである。古代ギリシャにおいてもソフォクレスらが「生まれないことがよいこと」という考えを作品の中に描いていたし、そもそも現代の反出生主義の考えも元を辿るとショーペンハウアーである。瀬戸山氏が一体どのようにかつてと最近を分けているのか分かりかねるが、あまりにも不見識な発言ではないだろうか。「反出生主義」という言葉が定着したことによって現代の人々の間において、ある小さな流行が生まれたこと、またあるいはそれぞれがこれまで世界に対して感じていたものが明確になったこと、それは確かなことであるかもしれない。けれども、人々が感じているぼんやりとした”出生主義への拒絶感”自体が「現代にのみ特筆して多いもの」とは言い切れないだろう。もし仮に、「戦後の演劇は生に肯定的だったが、最近の若者の演劇はそうではない」みたいなことを想定して言っているなら、社会性や時代性についての視野が狭すぎると言わざるを得ない。
 このように指摘しているのもまた、募集テーマが「ともに生きる〜多様性の時代に生きるということ〜」だからだ。「ともに生きる」は当然、「ともに生きられない」を含む。「多様性」は当然、「ともに生きられない」を切り捨てるものではない。あってはならない。反出生主義という考えは現代において重要なキーワードであることには違いなく、この募集テーマの審査会において、半端な知識で雑に扱われてよい用語ではない。この考えが最終的に行き着く先には「ともに生きる」の崩壊があるわけだが、それはあくまで思想であり、生き方であり、テロリズムではない。このテーマにおいても、当然、一つの考えとして適切に扱われるべきだ。補足しておくと、審査会においては、雑に扱われたということであって、批判的に述べられたわけではない。
 反出生主義についてはこの辺にしておく。「ともに生きる~多様性の時代に生きるということ~」についてもう少し考えていきたい。これが募集テーマであること、そしてまた、応募規定に「多様性を尊重する時代だからこそ、「ともに生きる」について深く考えてみる」と書かれていること。応募者はそれぞれの視点でこのテーマについて多かれ少なかれ考え、応募したと思われるが、では、審査会はどうであったか。私としては、深く考えられたとは思えなかった。というのも、審査会において司会でもあった松井氏は、「ともに生きるというのが募集テーマになっているので、他者性があるかどうか」ということを問題にした。はて。「他者性がある/ない」というのは、演劇や戯曲の講評・審査においてあまりにも聞き飽きた評価基準である。まあ"戯曲観"が既成概念なこと。それはさておき、ともに生きるとの関連性として評価の指標にすることに何の疑問もなかったのだろうか。ちょうどその話が出た『A home at the end of this world』について、他者性がないというのは正しい指摘だろうか。「二人が似たような性質で広がりない」みたいなこと自体は分かる。これは審査員の言葉ではないが、「被害者側の意見だけが書かれている」これも演劇の批評でしばしば聞く「他者性」を指標とする言葉として、当作品にも該当するものだろう。けれども、それは募集テーマと照らし合わせてどのように映るのか。我々はこれまで、(戯曲・演劇に限らず)「他者性がある/ない」という評価軸で、そのような”マイノリティの静かな叫び"を切り捨ててきたのではないだろうか。つまりは、そうした「他者性がない」の中には、例えば「フェミニストは言い方が感情的で攻撃的だから共感されない」といったものも含まれ得るということだ。もちろんそのことと、演劇の評価というのは別物だ。演劇の表現として観客に届くかたちになっているかについては、別の基準として評価される、それ自体に異議はない。けれども、本当に全く別物にしてよいのか。本当に、その評価軸で簡単に切り捨ててよいものなのか。
 端的に言うならば、多様性がテーマなのに、深く考えずに、切り捨ててよいのかということだ。それぞれの戯曲は、演劇の既成概念から見ると、それぞれにどこか弱みのあるものでありながら、「多様さ」をもって立ち上がっている。戯曲賞候補作品として、モノローグが多いという傾向はありながらも、身体性の強いもの、実験性の強いもの、文学性の強いもの、などといった形で、これらの私の言葉では要約できないような生々しさをもって、立ち並び、多様さを表している。それらに対して審査の言葉に多様性がない。「他者性がある/ない」とか「身体性がある/ない」とか、そういった審査員たちの"戯曲観"は、これらの作品を評価するにふさわしい言葉か。
 たとえば「結果のため/実験のために書かれている言葉」を、では、すべてロボットが演じたらどのような表現になるのか。「体温」というわかりにくい概念を、体温という言葉にまつわる様々なエッセイや絵画と共に展示上演をしたら、どのような意味を表象するのか。「言葉を持っていて、頭が良い」人は、現実の肉体的な圧力に対して立ち向かえると思っているのか。「当事者が見たら嬉しいか」では例えば当事者が演じることによるケアを目的とした演劇ならばどうなのか。
 これらは単なる例を書いてみただけに過ぎない。私の作品に対する意見ではない。また当然の前提として、なんでも新しそうなことをすれば独自性を獲得するというわけではない。けれども演劇は、決められた舞台というハコに、人間だけを押し込めて、目の前の観客が見る、というものだけで成立するものではない。我々はそれをこの時代に改めて実感してきたはずであり、また、そのまなざしこそが、「戯曲コンペ」が既成概念を打ち破る可能性ではないか。戯曲の持つ無限の可能性について多角的に向き合い、論じ、その可能性を広げていくことこそが、この演劇アワードのコンセプト、そして戯曲コンペの掲げるテーマや審査基準が要求している在り方ではないか。それこそが、最終候補者のみならず全ての応募者に対しての、誠実な在り方ではないか。
 とはいえ、結局のところ、審査会を見せ物としてコンパクトにまとめようとする運営の姿勢が、審査員それぞれの可能性、審査会の議論の可能性を閉じてしまっている、というだけのようにも思う。そうであるならば大変不幸なことであるが、けれども、むしろ、そうであるならばこそ、審査員のうち一人くらいが補足をどこかに書き連ねてもいいように思う。もちろんギャランティもなしにそんなことは出来ないという事情は理解している。言いたいことを言い尽くした、議論し尽くしたと思っているのならば期待するものはなにもない。
 かなり、まとまりのない文章となってしまったが、かながわ短編演劇アワード2022戯曲コンペティションについて、私が感じたものを、なるべく詳細に記してみた。私なりにテーマに向き合い、神戸の「哲学的ゾンビの妄想」の事件も念頭に置き、自らの「哲学的ゾンビ性」について書いて、応募した。最終選考に残らなかったことはただの力不足であるが、それは正直どうでもよく、それよりも、最終審査会の内容がテーマに対して深まっていかないことによって、私はこの戯曲コンペに出したことが無意味であったと感じた。
 そして今、改めて「哲学的ゾンビ」と検索しようとすると、候補に「哲学的ゾンビ アスペルガー」と出てきた。これをいま読んでいるあなたは、どのように感じただろうか。そうかもしれない、関係があるかもしれない、と感じただろうか。アスペルガーは、自閉というのだから、自らに閉じているということで、それは哲学的ゾンビというのも、そういうことなのだろうと思っただろうか。ぼんやりとでも、そういった考えを巡らせただろうか。残念ながら、多様な私たちを切り捨て、苦しめているのは、まさに、そのように用語の定義をよく調べずに、印象で捉え、結びつけるような短絡的な考えである。

5.その他の戯曲賞

 その他のというには、岸田國士戯曲賞はあまりにも話題になったが、私は様々な事情により一本も作品を読むことができなかった。岸田賞についても、例年、選評のレベルは低い。宮沢章夫氏は個人的な趣味をダラダラと書く点で最も酷かった。一応申し上げておくと、あのような評と言えない評を「面白い」と言って許容してはならないと私は考える。宮沢氏は選考委員から外れたが、一方で、他審査員を凌駕する圧倒的な筆力の柳美里氏も辞めてしまったことにより、もうどうにも期待できない。矢内原氏は昨年度のものを読む限り、評を書くのにあまり向いていないと思う。任期を更新しなかった平田氏も今思えばギャランティの影響かもしれないが、十分な選評を書いていたとは思えない。男女比率については、永井氏や本谷氏がやりたがらなければ、他にいないのだろう。すでに落ちつつあると思われる権威の維持は、審査員の名前だけによって保たれるのだろうか。例えば黒川陽子氏のように教養があり、作品分析に長けており、論旨明快に言葉を連ねることができて、かつ、固い信念を持っている中堅劇作家が岸田賞の審査をしても、私はよいと思う。
 テアトロ戯曲賞。掲載戯曲も選評もほとんど読まなくなって久しい。記憶の限り選評が本当に下らないし、近くの書店には売っていないし、HPがずっと更新されていないなどあまりにも時代遅れで、月収50万円くらいにならないと購読の検討にはまず入らない。2021年度については、最終候補作が二作品にまで絞られたにも関わらず、受賞作はなしということのようだ。選評を読んでいないのでなんとも言えないが、これだけを聞いてもどうかと思ってしまう。
 北海道戯曲賞。選評のみさらっと読んだが、全審査員が全ての作品について評を書いているということにまず好感が持てる。選評というものが絶対に全ての作品に触れなければならないとは思わない。紙面の都合ということもあるからだ。けれども、戯曲賞の選評については、3で述べた川村氏も然りであるが、全ての作品に触れないだけの説得力のある選評というのはほとんどない。というわけで、まずそれだけで素晴らしいと感じた。書かれている内容も厳しい批評はありながら、健全な議論がなされている審査会を想像できた。作品を読んでいないので判断しかねるところもあるが、概ね良い批評と思えた。一方、どうしても読み進めてしまう選評もなかったし、選評を読んでどうしてもこの作品を読んでみたいと思えたものもない。
 人間座「田畑実戯曲賞」。応募作品が少ないながらも、毎年実力のある作家が取り続けている印象だ。一次選考を通り、受賞に至っていない作家の中にも注目すべき作家が多数おり、応募者のレベルの高さが伺える。田辺剛氏の選評を、私は演劇界ではかなりレベルの高い方だと思っている。全国学生演劇祭の講評においても担当された年度で唯一良い講評を書かれていた。この戯曲賞の選考経過も、ただ情報を並べるだけではなく、要点が分かりやすく書かれている。なんとなく頼まれてなんとなくやっているのではなく、お作法がきちんと分かっているということが見えて、信頼できる。公開審査会に向いているか、AAF戯曲賞のようなコンセプトの賞に向いているか、等のことは分かりかねるが、田辺氏を演劇界では比較的実力のある評者として、評価しておきたい。
 その他については、特に私は語る内容を持たない。二年ごとに開催されるせんだい短編戯曲賞が、先月末締め切りとなった。初期から比べると審査員の顔ぶれもかなり変わり、楽しみにしている。

6.戯曲賞はどうしていけばいいのか

 私は、戯曲賞はどうしようもないな、と思っている。演劇界はどうしようもないな、と思っている。とりあえずここでは、「選評」「講評」というものに限ってである。では、どうしていけばいいのか。
 まず、劇作家協会新人戯曲賞については、システムをどうにかした方がよい。現在、最終審査員については応募者の投票式になっている。けれどもこれはほとんど人気投票・協会内の知名度投票にしかならない。また、おそらく例年平田氏や永井氏の辞退によって死票の割合も多いだろう。もちろん人気投票が悪いわけではない。この人に審査してもらいたいというのも作家として大切な気持ちだ。しかし、とはいえ、現状でいいとは思わない。255作品×3票で765票。このうち何票が最終審査員に投票されているのか、考えてしまうところだが……。批評における不適切なものというのは解釈が分かれるであろうし、それをもってして審査員に相応しくないと判断し、解任するシステムを作るのは難しいであろうが、この度の会長交代によって協会のシステムが変わろうとしているならば、役員に不適切である人物は当然審査員にも不適切と思われるが、果たしてどうだろうか。審査は作品に対してのものであるが、当然審査員という立場は一定の権力を持つことになる。ハラスメント等の問題がある人物が審査をしてよいとは私は思わない。それによって起こってしまった不幸もあったことだろう。私は私として第26回の坂手氏による選評について協会に抗議文を送っているが、どうなるかは分かったものではない。あとは、今年度も投票の形式となるならば、私としても、様々な人から情報を集め、審査員に適切である人を改めて呼び掛けていくことだろうか。いずれにしても、毎年選評のレベルがかなり低く、にも関わらずそれが投票で選ばれているという有様なので、何かしらシステムごと変わった方がよい。
 AAF戯曲賞と、かながわ短編演劇アワードは、同列に語ってしまうと「AAFと一緒にしないでくれ!」と怒る人が何人かいるかもしれないが、とはいえ共通点がある。戯曲賞が掲げるコンセプトに審査会が応えられていないという点である。形骸化する、あるいは、運営によって形骸化させられている、ということがあると思われる。AAFは審査員の顔ぶれが変わっていったことによる、これまであったある視点の喪失や、パワーバランスの変化なども要因として考えられる。かながわ短編演劇アワードについては、そもそも募集テーマが神奈川県からお金を取るためだけに考えられているのではないかと邪推している。それはそれで大事なことだが、もしそうであるのならば、応募者に対してはそれほど重視しないのだということが伝わる募集要項であって欲しい。コンセプトや募集テーマ、審査基準というのは、応募者に出した課題であると同時に、それを審査する側に対しても課される課題であると、私は考えている。ここには、というかどんなことでもそうであるのだが、運営の問題がやはり大きくある。それでは、もう応えられないからこのようなコンセプトは無くしましょう、ということになれば、それはそれで戯曲賞のバリエーションが減ってしまうことになる。私は極論それでもいいと思っているが(これは当記事内で少し触れたネガティブ功利主義にも近い)、それもまた不幸なことだろう。審査員の顔ぶれを変えてみる、新しい人を入れてみる、と言っても新しい人を入れた結果よくならなかったのがAAFだ。
 私は常々演劇界の批評のレベルが低く、それを何とかしてほしいと思っているが、とはいえそんなことを言っても難しい。劇作家も演出家も別に批評の素人なのだ。素人が頼まれてやっているだけである。
 たとえば高校演劇は自治体によって審査員に要求される講評の方向が異なる。その要求で批評の道筋を示すことによって講評の質が向上している例も見られるので、そういったことも一つの手ではある。演劇と同じように何が正解かには様々な意見があるし、沢山の正解があるということなのだが、とはいえ、明らかな不正解の評というものは存在する。そして演劇界は不正解の評があまりにも蔓延っている。そういった事故を未然に防ぐことは、ある程度運営の努力で出来るようにも思う。審査していただいている、という態度で投げっぱなしにしては、事故は防げない。
 また、岸田國士戯曲賞において、宮沢章夫氏が暴力問題があったにも関わらず任用されて問題になっていた件や、柳美里氏の選評が掲載されなかった件など、白水社の態度に様々な問題が見える。劇作家協会にしてもそうだが、そもそも業界内の体質をどうにかしていく必要も、当然ある。そうでない体質のままで、現代の社会に対して、そして現代の空気を、少なくとも旧態依然でふんずりかえっている人たちよりも圧倒的に読み取ることの出来ている若手に対して、誠実であれるはずがない。

7.おわりに

 特に何も結論は出ていないし、記事をまとめる役割も果たさないのだが、私が少し問いかけたいことがある。戯曲や演劇の講評・選評でしばしば用いられる指標についてだ。

・他者性がある/ない
・社会性がある/ない
・斬新である/ない
・誠実である/ない
・志の高さ
・解像度の高さ
・描いていることが身の回りのことかどうか

 これらをなんとなく使っている人は多いだろう。その対象とした作品が、これらの指標で考えると、いったいどのようなものを目指しているのかをろくに読み取れていないままに、用いられていることもある。高校演劇のように作品を観てから講評までの時間が極端に短い場合は、当たり障りのない言葉を使ってしまうのも仕方ないと思える面はある。けれども戯曲賞の場合、事前に読み込んで考えてくる時間が(おそらく)あるわけで、それをなんとなく聞こえのいい言葉で評するようなレベルであってはならないと私は考える。
 もしかすると「言葉狩りだ!」みたいな気持ちになる人も中にはいるかもしれないが、私が言いたいのは、よく考えて作品に向き合って欲しいということだ。そして、自分の発する言葉の内にあるものさしが一体どういうものなのか、それが本当にその作品を図るに相応しいものさしであるのかを考えて欲しい、ということだ。現状、明らかに、演劇や戯曲の審査を担う人の考えが足りていない。もちろんその背景に、岸田賞のギャランティが5万と言われたように、謝金が低いことも要因としてあるだろう。けれども、では、お金がちゃんと出ていれば質が向上するのか。そういう人もいるだろう。そうではない人が大半だと私は思う。
 様々な角度から意識を変えていくことが必要だ。

・運営のあり方を問うこと
・審査員が作品や作り手をなめないこと
・審査員が批評を甘く見ないこと
・作り手が審査員の言葉を疑うこと
・批評のできる審査員を選ぶこと

 審査員の言葉を疑うとき、複数の人が「理想の講評」について語り始める。それはそれでいい。けれども理想と言って、結果それが漠然としていたら、議論は深まっていかないように思う。漠然としたものを投げかけて改善するのか、皆が深く考えるようになるのか。私にはそうは思えない。言葉を疑うための知見を養うことも大事だ。試しにこの記事に書かれている言葉を細かく見て、問うてみるのもよいだろう。
 批評というのは「価値付ける」営みだ。選評は選評なのだから、落とすための言葉があってもいい。けれどもそれは作品の価値に対する、圧倒的に真摯なまなざしがあってこそではないだろうか。

 私は、公開当時に『映画 えんとつ街のプペル』を観て、様々なサイトを検索した。興味深い批評は見当たらなかった。どれもこれも西野氏が「こういう作品です」と言っていることに疑いがなかった。マイナスの評価も、映像技術のみを指摘し、ストーリーの欠点については全く触れないままに、泣いている観客に疑問を投げかけていた。
 私は悲しかった。優れた批評がある作品に、触れていきたい、と思った。思い出したのは日本SF大賞だった。とくに鮮明に蘇ってきたのは、長谷敏司氏による『君の名は。』への批評だった。

 私はこの選評を、何十回も読み直した。長谷氏の評に限らず、全て何度も読んだ。『君の名は。』は受賞には至らなかったが、これだけの言葉が書き尽くされていることに、深い感動を覚える。それは、この選評自体がひとつの芸術作品として立ち上がってくるかのようだ。
 だから私は、日本SF大賞の候補作品を沢山買ってみることにした。そのおかげで円城塔『文字渦』という、私の中でオールタイムベストとなる作品に巡り会えた。SF小説を書いてみたいと思えた。創元SF短編賞の過去受賞作を読んだ。選評も読んだ。読み応えがあり、とても豊かな議論が行われたのだと思えた。初めて書いた小説がその賞の一次選考に通った。私はいつか、あんなふうに、優れた批評を貰いたいと思う。それが今も小説を書く原動力の一つになっている。
 同じ回の日本SF大賞において、牧眞司氏の選評にも大切なことが書いてあったので、引用する。

選考会は、ぼくにとってたんに受賞作を決める手続きではない。ほかの選考委員と論議をすることで、作品の新しい魅力を発見したり、いままでと違った角度で読み直す素晴らしい機会だ。

https://sfwj.jp/awards/Nihon-SF-Taisho-Award/37/20170507033854.html  (参照2022-04-14)

 このnoteの1〜4までの節を書いてから2週間以上が経ち、今、これを書いていて、5年前の言葉が再び私の心を突き動かす。私も、このようにあって欲しいと思っている。戯曲賞はどうだろうか。そのようにあるだろうか。私は、とてもそうは思えない。

 日本SF大賞は、対象作品を小説に限らないが、それでも、文学界隈における批評のレベルの高さは、羨ましい限りである。誰とも分からない人のブログであっても、とてつもなくクオリティの高い評が書いていることも多々ある。

 私にとっていま、小説を読んで、批評を読むこと、あるいは、批評を読んで、読みたい小説を見つけることが、大切な営みの一つになっている。
 また、戯曲への興味を、演劇への興味を、これまでにないくらい失っている。


8.参考資料

引用文献
3.劇作家協会新人戯曲賞
一般社団法人日本劇作家協会『第26回劇作家協会新人戯曲賞 選考経過と選評』
http://www.jpwa.org/main/activity/drama-award/517 (参照2022-03-28)
4.かながわ短編演劇アワード 戯曲コンペティション
かながわ短編演劇アワード2022 ツイッターアカウントhttps://twitter.com/magfes_tanpen(参照2022-03-29)
ステージナタリー『岡田利規×瀬戸山美咲×楫屋一之が語る「かながわ短編演劇アワード2022」この時代を乗り切った人たちの表現を』
https://natalie.mu/stage/pp/kanagawatanpen2022/page/3 (参照2022-04-02)
神奈川県『かながわ短編演劇アワード2022 戯曲コンペティション 作品募集要項』https://www.pref.kanagawa.jp/documents/78956/gikyoku_boshuyoko.pdf (参照2022-04-02)
神奈川県『「ともに生きるかながわ憲章」ポータルサイト』http://www.pref.kanagawa.jp/docs/m8u/cnt/f535463/index.html (参照2022-04-02)
7.おわりに
日本SF作家クラブ『第37回日本SF大賞 選考経過 選評』
https://sfwj.jp/awards/Nihon-SF-Taisho-Award/37/20170507033854.html  (参照2022-04-14)

参考文献
森岡正博(2020)『生まれてこないほうが良かったのか? ―生命の哲学へ!』筑摩書房
森岡正博(2021)「反出生主義とは何か ―その定義とカテゴリー」『現代生命哲学研究』第10号、39―67頁。

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