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「クーデンホーフ光子の手記」 を読んで


#読書感想文

昨今世界情勢ははイギリスがEUから離脱を選んだという国民投票の結果に衝撃を受けています。

このEUにちなんで、EUの母と呼ばれる人が、実は日本人女性であたっということを皆さんはご存知でしょうか。

東京府牛込区、今の新宿の骨董品やの娘として生まれた青山ミツ。彼女は、18歳の時にオーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使として日本へ赴任したばかりのハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵と出会い、結婚しました。

明治25年、1892年の事です。一説によると、クーデンホーフ伯爵が来日してたった2週間でミツコとの結婚に至ったという話が残されています。翌年には長男ハンスが、その翌年には次男リヒャルトが生まれます。この次男リヒャルトが、後に、「パン・ヨーロッパ主義」をヨーロッパで最初に唱えた人物なのだそうです。

21世紀に入り、令和の時代を生きる者から見れば、にわかに信じがたいかもしれませんが、昭和初期でも非社会的とみなされていた国際結婚です。その約100年近くも前の明治時代に一般女性が外国人男性と結婚するというのは日本の常識からすると想像を絶することでした。当然その時代の強固な価値観に従い、ミツコは父から勘当されたそうです。ですが以外なことに、日本の皇室は彼女たちの結婚に寛大でだったそうです。明治天皇の皇后は、宮中にミツコを呼び、「遠い異国に住もうとなれば、いろいろと楽しいこともあろうが、また随分悲しい辛いこともあろう。しかしどんな場合にも日本人の誇りを忘れないように」とのお言葉と象牙の扇子などのお餞別まで与えたという事です。この結婚は日本の公式な国際結婚第一号とも言われています。

1896年、今から丁度120年前に、一家は夫の祖国、オーストリア・ハンガリー帝国、今のチェコへと移り住み、更に5人の子供を授かりました。120年前にヨーロッパへ行くには3ヶ月以上を要し、その船上での様子、また船の立ち寄る先々での彼女が見た様々な情景は大変面白いものがあります。クーデンホーフ伯爵家は、ハプスブルグ家の家臣でもあった貴族の中でも名家で、夫の側でも由緒正しい伯爵の外交官が、東洋の娘と結婚することに対して相当の抵抗があったようですが、彼はミツコを庇う姿勢を一生貫き通しました。夫ハインリッヒのずば抜けた教養(18カ国語を操る政治家であり、学者であり、神学者哲学者、文学者、音楽家)明るく優しい性格、深い愛情についてはこの本に詳しく描かれていますので、興味のある方は一読してみて下さい。1906年に夫が心臓発作で急死。47歳の若さで動脈硬化との診断でした。ミツコは32歳で寡婦となってしまいました。

東洋の島国、日本から一人嫁いだミツコは、偏見と孤独の中、毅然として7人の子供たちを育て上げ、高い教育を受けさせました。

その中の一人が次男、リヒャルト。29歳の時に、「パン・ヨーロッパ」という著作の出版により一躍ヨーロッパ文壇の寵児となり、一大旋風を巻こしました。リヒャルトのパン・ヨーロッパ論は、世界をイギリス、アメリカ、ソ連、アジア、ヨーロッパの5圏に分けるというもので、ヨーロッパを一つに統合し、アメリカ合衆国のようにヨーロッパ合衆国を設立することでした。この時点で既にイギリスが別枠に扱われていたことが興味深いと思います。

詳しいことはさておき、このことから、リヒャルトはEUの父、とか「欧州統合の父」と呼ばれ、その彼を日本人とのハーフとして育て思想に影響を与えた母ミツコは「EUの母」と呼ばれているそうです。ミツコは1941年8月、67歳で生涯を閉じます。21歳で日本を離れてから45年、ついに日本の地を再び踏むことはありませんでした。

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