Keiichi TANAKA

文筆・校正業。珈琲&喫茶にまつわる小冊子『甘苦一滴』編集人。『神戸とコーヒー …

Keiichi TANAKA

文筆・校正業。珈琲&喫茶にまつわる小冊子『甘苦一滴』編集人。『神戸とコーヒー 港からはじまる物語』(神戸新聞総合出版センター)『KYOTO COFFEE STANDARDS』(淡交社)が発売中。2/26に新刊『京都喫茶店クロニクル』(淡交社)が発売になりました。よろしくどうぞ。

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  • 「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」

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「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」10

人とのつながりを大切した創業者の心意気  5年間で3つの支店を開くと同時に、千日前本店の改装や珈琲の地方発送、百貨店での瓶詰め珈琲や珈琲ゼリーの販売を始めるなど、新たな展開が続いた90年代。この時期の試みが、大阪のみならず、全国に丸福の味を広める契機となった。商品の管理には苦労したそうだが、手作りの濃厚な味わいは好評を博し、遠方から訪れたお客と出会える喜びは大きかったという。  「先代はもともと東京から店を始めたので、向こうでいろんな商品を置いていただくようになったのを見て

    • 「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」9

      戦後の画期となった新たな支店の開業  時代は下って、戦後の「丸福珈琲店」の大きな転機となったのは90年代。北浜を皮切りに寝屋川、都島と、初の支店を出店した頃にあたる。折しも、バブル後の不況の時代だったが、「その時に、うちに全体的にちょっとした勢いがあったんではないかと思うんです。なんかそういうノリってあるじゃないですか(笑)」と振り返る、英子氏はあっけらかんとしたものだ。  それだけを聞くと順風満帆に思えるが、「そうではなくて、やっぱり背負ってるものがありますよね」と言葉を

      • 「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」8

        創業者を支えた夫人の愛すべき人柄  少年時代の丁稚奉公から戦争を経て、現在へとつながる『丸福珈琲店』の地歩を築いた貞雄氏。その行動の端々に、根っからの商売人、職人気質がうかがわれるが、彼に負けず劣らずの働き者だったのが、なお伊夫人かもしれない。話は少し逸れるが、創業者を支えた夫人についても触れておきたい。  娘である英子氏によれば、母親を一言で表すなら“純真・無垢”。「今時、どこかにいたらお目にかかりたい、と思うくらい優しくて、かわいらしくて。文句一つ言わない従順な人でした

        • 「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」7

          日本初のエスプレッソコーヒー?  終戦から、日常を取り戻しつつあった丸福珈琲店。街はまだ復興半ばといった、一九四八年(昭和23年)頃、貞雄氏は大きな買物をした。「先代は何でも第一号が好きでしたから」と言う英子氏に聞くと、意外にもエスプレッソマシンだという。知り合いの商社から話を聞いた貞雄氏は、当時にしておよそ100万円を惜しげもなく投じたのだ。珈琲自体が貴重であり、ましてやエスプレッソなど言葉すらまだなかった時代である。”日本で初めてエスプレッソマシンを置いた店”になってい

        「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」10

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        • 「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」
          10本

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          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」6

          いち早い復興を支えた、現金払いのモットー  一九四九年(昭和24年)、難波に珈琲店「オランダ」を創業し、以前は喫茶学校の講師も務めていた山田哲夫氏は、かつて貞雄氏に焙煎などの相談を受けていたという。「人の言うことを率直に聞いて、すぐ実行に移す人やった」と、当時のことを記憶している。しかし、それ以上に貞雄氏らしい逸話が、当時、珈琲豆の卸もしていた「オランダ」に豆の買付けに訪れた時だった。「全て現金で支払ってたんやけど、お札がどれも土臭かった。土に埋めてたと聞いたけどな」。はた

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」6

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」5

          いち早く戦後の渇望を満たした”本物の珈琲”  焼け野原になった大阪の街は、まさに絶望的な光景だったことだろう。ただ、その中にあって、奇跡的に貞雄氏の自宅と今池の店が残っていたことだけは、唯一“希望”と呼べるものだった。  終戦を告げる玉音放送を聞いてから2カ月後、貞雄氏は何より心配していた家族を迎えるべく、疎開先へ向かった。当然、電車の切符など取れる状況ではなかったが、そこは元南海電鉄の職員だった真鍋さんがいる。伝手を頼って、闇切符を入手できたのだ。幸いにして全員無事に大

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」5

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」4

          再びの逆境にも揺るがない商売人の意地  前回から少し話を遡るが、貞雄氏の修業時代から『丸福商店』開店に至る、1925年(大正14)から1932年(昭和7)頃の大阪は、東京市(当時)を面積・人口ともに上回る日本一の都市として繁栄を極めた。関一(せきはじめ)市長による総合大阪都市計画の下、市営地下鉄や御堂筋など矢継ぎ早の事業によって「大大阪」へと変貌*1。同時期には、大阪資本のカフェーが関東大震災後の銀座に進出。過剰なサービスで衆目を集め、一部に「大阪的」と揶揄されながらも、享

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」4

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」3

          創業から息つく間もない盛り場の賑わい  1934年(昭和9年)に開店した「丸福商店」今池店。現在の本店とは所在が違うが、大阪での”発祥の店”は、実は今もほとんど姿を変えずに営業を続けている(現在は「コーヒーショップ 伊吹」に改名)。筆者は実際に店を訪ねてみたが予想外に狭い、というよりむしろ細いと言った方が正しい。間口を入ると店内は右奥に向って鋭く尖っていき、左右の壁に据付のテーブルとスツールが交互に並ぶ(写真)。10人座れば足のやり場もない店に、かつてお客がひしめき合った情

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」3

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」2

          大阪の恩人への義理と苦渋の決断  幼なじみの親友に、線香をあげた貞雄氏の胸中はいかばかりだったろうか。彼は墓参のために大阪に帰ってきていた。わざわざ手紙で訃報を知らせてくれたのが、他ならぬ大阪での修業時代を過ごした割烹の女将であってみれば、なおさら来ない理由はどこにもなかった。しかし、親友に別れを告げたあと、彼はことの真意を知る。  義理堅い貞雄氏の性格を熟知してのことだったのか、女将は「一人息子を失って寂しい…東京も大阪も商売に違いはないから、家へ来てくれないか」と切り

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」2

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」1

           先日、お知らせしました通り、今回から『甘苦一滴』の連載記事「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」の再掲をお届けします。  その前に、丸福珈琲店について簡単に。丸福珈琲店は、全国有数の喫茶店数を誇る大阪で、創業70年を超える老舗。俗に”なにわストロング”とも称される、深煎りの濃厚なコーヒーで親しまれています。近年は各地に支店ができて全国的に知られる存在となりましたが、その独特の味がいかにして支持を得てきたのか。創業者の生い立ちから遡っています。多少の改稿・補足はしていますが、

          「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」1

          noteで甘苦一滴

          このたび、noteを始めました。田中慶一(Keiichi TANAKA)と申します。 文筆・編集業の傍ら、コーヒー好き高じて、自作の小冊子『甘苦一滴』を発行。雑誌・書籍でも、喫茶店史から現在のカフェ事情まで、主に関西の喫茶にまつわる取材に携わってきました。ひょっとすると、どこかの誌/紙上でお目にかかっているかもしれません。 改めてご紹介しますと、『甘苦一滴』は2001~2017年の間に20号を発行。ワンマン編集ゆえ、平均すると年に1回出るか出ないかというマイペースぶ

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