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「嘔吐恐怖」1

「そんな汚いもん、早く捨ててきな」

幼いながら、店内を汚してはいけないと咄嗟に両手の中へ吐き出した息子の吐瀉物を見て、母はそう言い捨てた。
僕は、小さな手の中に溜まった汚物を溢さないよう、一歩ずつ慎重に進み、店のトイレへ向かった。廊下を挟むようにして座っていた大人たちは怪訝そうな表情で、ヒソヒソと何かを話しながら僕の行動を見張った。両手にたっぷり注がれた温かい吐瀉物。もちろん、小さな子供の指の隙間からは歩く度にボト、ボト、と溢れて落ちた。僕が歩いた道を示すように点々と残る汚物が晒される。涙が滲み、顔が熱い。母が思っている以上に、幼い子供だった僕の自意識は完成していた。

飲み会という場が嫌いだ。他人が容易く嘔吐するから。こればかりは自分自身の努力ではどうにもならない。僕は、幼い頃のトラウマが脳裏に焼き付き、何をしても吐き戻さない人間へと成長を遂げた。
嘔吐の恐れがある環境は徹底して避けた。食べすぎない。飲みすぎない。乗り物移動は避ける。体調の悪いときは水分以外体内に入れない。好物の生物も控えた。
それだけでは無い。僕は他人の嘔吐も恐怖の対象だった。遭遇してしまうと、たちまち全身の血の気が引き、音でも聞こえた日には卒倒しそうになる。今すぐ忘れたいのに、見てしまった映像が何時間も頭の中でリピートされ、僕自身が吐瀉物まみれになったような最悪な気分で過ごすこととなる。だから、飲み屋街は通らない。週末の終電には乗らない。吐き戻している人には近付かない。目の前で苦しそうにしていても僕は助けない。例え、冷たい人間だと思われても。

吐瀉物は汚い。臭い。気持ち悪い。その恐れがある人間も同じ。僕にとってこれらは知らぬ間に植えつき、気付いた時には揺るぎない信念となっていた。避ければ避けるほど膨張していく恐怖心は、通常生活に支障をきたすまで僕を孤独に追いやった。

こんな事ではいけないと、大学生になった僕は訓練の一環として飲み会のあるサークルに入った。初めて参加した日を今でも覚えている。会場となる居酒屋に向かう時点で冷や汗をかき、周りの音が聞こえなくなるほど緊張をしていた。
店に着くと、僕は一番出口に近い席に座った。なるべく外の空気に触れられる所がよかった。少しあとから入ってきた友人たちは、僕の近辺を埋めるように次々と座っていった。
乾杯の音頭。先輩が僕たち後輩に向けてかしこまった挨拶をしたと思ったら、いきなりクラッカーの音が鳴り響き、ジョッキグラスを持った派手な女の先輩たちが僕たちを囲んだ。

「飲めー!」

呆気にとられた僕は、重いグラスを持たされたまま動けずにいた。周囲を確認すると、友人たちは見る見るうちにグラスの中身を空けていく。中身は恐らく焼酎を紅茶で割ったもの。飲み慣れていないはずの大学生という子供が、こんな量を一気に体内へ流し込んで大丈夫なのだろうか。グラスを空けた途端、逆流し込み上げてきたものをぶち撒けるやつが出てこないだろうか。一瞬のうちにここにいる全員が敵。怪物に見える。あぁ目が回る。やっぱりだめだった。こんな所、僕は来るべきではなかった。社会人になれば酒の付き合いもあるだろうと練習のつもりだったが、飲み会を避けて生き続ければいいだけだ。子供の時より自分の選択に自由はある。こんな訓練はそもそも必要がなかったのだと、激しく後悔をした。

目の前にある酒と僕。これを一口含んだ時、僕は一体どうなるのか。未知なる成分に身体が拒絶反応を起こし、吐瀉物どころか泡を吹いたまま倒れるだろうか。無様な僕の姿に周りは冷ややかな視線を向け、さもバイ菌のように扱うだろうか。
周りのどんちゃん騒ぎが遠くなっていく孤独な世界で一人、止まらない思考だけが僕を煽り立てる。脂汗が止まらない。今すぐこの店を飛び出そうか、そんな事を思い始めた時、一人の声が僕の意識に飛び込んできた。

「あれ、飲めない系?」

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