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ずっと雨でも。

それは1992年の春だった。
音楽家の父と、花や子どもが好きな母との間には
今もずっと雨が降っている。

初産は予定日より早いことが多いと最近知った。
それなのに7日も母の子宮に留まり続けた私は
この世界に生まれるのが怖かったのかもしれない。
産声をあげなかったことで母はとても心配したそうだ。
私はへその緒を首に巻いて生まれてきた。
「あらあら、二連のネックレスなんてしちゃって」と助産師さんが優しくほどくと私はついに泣き出した。
母はとてもホッとしたそうだが想えばそれが私の最初の悲鳴だった。
あれはネックレスなんて煌びやかなものではなく
これから始まる途方もない希死念慮と闘う人生に怯えた、初めての自殺未遂だったのかもしれない。
3月の後半、退院した母と私の目の前には春にしては珍しい名残雪が降り注いでいた。生まれて初めて目にした外の風景から既に晴れ間など私の人生にはなかったのだろう。


4歳ではじめて絵本を作った。
幼稚園教諭の母はたくさんの絵本を持っていた。
読み聞かせてもらううちに私は
物語や主人公よりも作者に感情移入をした。
どうしてこんな素敵なお話を思いつくんだろう。
どうしてこんな美しい絵を描けるんだろう。
その想いを汲み取ってくれた母は私が画用紙に描いた絵と文章をホチキスで止めて色画用紙でカヴァーをつけてくれた。
その日から14歳の誕生日まで、私は全てと引き換えにしてでも作家になることを夢見て生きた。

家にはいつも音楽が流れていた。
父のギターやピアノ、レコーディングや練習の音がうっすらと聞こえる部屋の中、小学校4年生で初めておさがりのパソコンをもらい、私は小説を書きあげた。

学校生活の記憶はほとんどない。
申し訳ないことに友人の顔もあまり思いだせない。
変わった子供に見えたのだろう。
色々と受けた嫌がらせは山ほど思いだせるけれど
さほど私は傷つかなかった。
何をされようと小説を書いてデビューして、作家になれればそれでいいと猛進し続けていた。

初めての賞応募は小学校6年生だった。
当然ながら一次で落選。
この頃は児童文学やファンタジーが好きだった。
確かに冒険小説が流行っていたが大人と対等に闘ってもやはり語彙力で負けてしまう。
だからといって子供向けの文学賞や学生限定の文学賞には目もくれなかった。
そんなハンデは要らない、ただただ自分の本が行きつけの本屋で平積みになっている様子を見るのが、私の唯一の夢だった。

その後5作ほど応募をする中で自費出版の会社からの声もかかった。
だがやはり自ら費用を出してまで出版するのではなく、誰かから、認めてもらいたかった。

中学2年の夏、母方の祖父母の故郷の新潟に旅行した。
日本海の波は強く逞しく、海岸には美しい浜昼顔が咲き誇っていた。
この頃私はついに愛機を手に入れていた。
薄緑色のVAIO。名前は苺緒と名付けていたっけ。
3泊4日の旅の中でも私はずっと小説を書いていた。
宿で両親が寝静まった後もひたすら夜通し書くことに明け暮れた。
夏が終わる頃、その作品は完成した。
「色」をテーマにした4篇から成る少年少女を描くオムニバスだった。

9月に作品を応募するとあれよあれよというまに書面が届いた。
最終選考まで残った時に連絡を受け、いわゆる「内定」をもらった。
はしゃいだ私は無邪気に実家の周りを全速力で3周走った。
純真無垢で、素直な努力家だったんだと思う。

そして私はひとつの文学賞を受賞した。
そこからは怒涛の日々だった。
初めての記者会見。山の上ホテルの金屏風の前。
たくさんのカメラにインタビュアー。
同い年の学生さんと一緒に中学生新聞の取材も受けた気がする。
有名作家さんとの対談。
新聞や公募ガイドやダ・ヴィンチに載る宣伝の数々。だけどいいことばかりじゃなかった。
若手作家の出版バブルだった当時、ポッと出の中学生が大金とデビューの確約を手にしたのだから、当然だけど厳しい意見も出た。
まだSNSやインターネットが盛んでなかったあの頃、初めて2ちゃんねるに自分の名前が載って、いわゆる「叩き」に遭った。
学校で受賞のことを知られていないはずなのに、突然面識のない同級生から「お金持ってるんでしょう?ママから聞いたよ」とせびられたこともあった。
出版前にオムニバスの一篇がホームページで閲覧できるようになっていたこともあり、まだ編集・校閲前の荒々しい作品にたいする誹謗中傷もたくさん届いた。
もちろんペンネームを使っていたはずなのにどこからともなく特定されることもあり、少々身を隠しながら出版に向けて動き出していた。

そんな矢先のことだった。
明日で14歳を迎えるという3月のある日。
忘れもしない、私はあの日、母に前祝いとして大好きなドトールコーヒーのミルクレープを食べていた。
その時、私のオレンジ色のガラパゴスケータイが鳴り、トイレで突然告げられたのは「出版社が倒産する」という知らせだった。

担当編集の人自身、連絡もなく出社停止となり、会社関係者が全員騒然としていた。
当然ながら私の両親もすぐに合流し、様子を見に行ったものの、事務所には閉じたまま。
私は顔もバレているし、危ないからと行かせてもらえなかったけれど、両親と担当編集の人が参加した、社長からの説明会の録音では怒号が飛び交っていた。
理由は会社の資金繰りが難しくなり、社長がポケットマネーで補てんしていたがそれも間に合わなくなったということ。
サイドビジネスとして行っていた自費出版の事業で、お金を払ったのにまだ出版されていない作家さん達は怒り心頭で、大きな賞金をもらうだけもらって顔も出さない私に誹謗中傷は激しくなる一方だった。
ホテルの控え室で名刺をもらってきらきらと輝いて見えたはずの社長はぐったりとした顔で朝のワイドショーに生出演して、コメンテーターの人から様々なことを訴求されているのを見た。
そんなこともあってか噂は広まり、学校では腫れ物扱いされ、ママ友軍団たちからは哀れみの視線を受け、あと少しで叶うはずだった作家デビューの夢は砕け、手元には500万が入った口座だけが残っていた。

何にも嬉しくなかった。
全然嬉しくなかった。
1ミリも嬉しくなかった
お金なんて要らないから本を出したかった。

受験もどうでもよかった。
人生がすべて無意味に思えた。
努力は必ず報われるなんて言葉は嘘で
世界は残酷だと思った。
大人が嫌いになった。
居場所がなくなった。
好きだった小説を嫌いになった。
もう文学に触れたいと思えなくなった。
あらゆるものが汚く見えた。
あんなに輝いた世界が一瞬で崩れ去った。


14歳にして私は「空虚」になった。


高校に行っても苦しみは続いた。
いったいいつ私の選考書類を見たのだろう。
入学してたった三日ほどで突然国語の先生に声をかけられた。
「あなた、もしかして受賞した……」
心底憎んだ。
その名前を捨てて新しい道を歩みたかったのに
悪目立ちした私の名前は大人たちに広まっていた。
同級生たちこそ、やっと叶った高校受験。メイクに恋愛にアルバイト、部活に勉強。それぞれ自分の夢を追いかけて、最も青春を謳歌している時期に落ちぶれた私の名前など知るはずもなく、声をかけてくるのはしつこい大人ばかりだった。

仕方なくスカウトされて入った文芸部で、前とは違った暗い小説ばかりを書いた。
絵本や児童文学が原点だった私にとってはモットーがあった。
・必ずハッピーエンドになること
・なるべく誰も死なずに終わること
・ジブリ映画のようにどんなに過酷な状況でもご飯を食べるシーンは入れる
これらを守らずただただ悲しい結末や、そもそも誰かの死から始まる物語などを書いていた。
救いのない物語が、好きだった。
自分に救いが無いように思えていたから。

賞応募はもうしなかった。同じ思いをしたくなかった。そこまでの野心など私にはもう残されていなかったんだ。

文芸部なんて毎日活動のある部活ではない。
個人個人で創作を進め、文化祭前にまとめて印刷製本するだけの簡易的な部活だ。
だから放課後はポプラの葉が見える3階の図書室で空を見上げながらずっとヘルマン・ヘッセを読んでいた。
彼のオートフィクションのような『車輪の下』のように、私もまた大人や社会やお金という車輪の下敷きになっているのだと思いながら。

それでもまだ創作にしがみついていたかった私は写真や映像の道に進むことを決めてポートフォリオを作って推薦を受け、芸術大学に進学した。
人々の恨みがこもった汚いお金はせめても進学に使おうと、入学金や学費にあてた。
しかしそこでも思った通りにすべてはいかず、出版関係の裁判沙汰などの余波もあり、親との反抗期が遅れて訪れた。
田舎のキャンパスで遅くまで絵を描いては画材を抱えて慌てて特急電車で渋谷に行き、好きなアーティストのライブを見たり、そのまま打ち上げ感覚で友達とセンター街のサイゼリアに行き、結局終電を逃して今日あった嫌なことや人生の悩みを滔々と語って結論も出せないまま、朝日を浴びながら始発で帰ったりもしていた。

そのうちに体力がもたなくなり、自分は本当にこの場所にいていいのだろうか、せっかくの賞金をはたいて4年間課題で心身を消耗しても、このままではまともな就職先もない。課題をこなすのに精一杯でまともに自主制作の時間も取れない。

考えを改めた私は通信制の大学で資格を取って、せめても自分のやりたかった絵画の研究分析をしたいと思い編入を決意した。

幸い芸術系の学校から美大への編入だったため、単位は相当持ち込めたと思う。あとは書類が揃って学費を入金すれば新しい生活の始まりだ。
もうすぐ19歳になる。10代の間に再出発してみせる。

そんな誕生日を目前にした2011年3月3日に祖父が突然死んだ。
私の小説を最も読んでくれた人。
私が暗い小説ばかりを書いても褒めてくれた人。
主人公が自殺未遂を繰り返す小説を書いた頃、実の母ですら「こんな思想に変わってしまって、この子は大丈夫だろうか」と思い悩んでいた時に「この子は大丈夫、こんなに素敵な作品を書いているんだから」と言ってくれた人。
本当に突然だった。前日まで美味しそうにポッキーを食べていたと聞いたのに。出版社が倒産した時よりも絶望した。

祖父の身体が灰に変わるまでずっとそばにいた。
冷たい手を握りしめ、線香の火を絶やさずに灯し、葬儀社の人と一緒にドライアイスを変えて、遺体の横で眠ったりもした。

出棺の朝には3月なのに雪が降っていた。
私が生まれて病院を出た朝と同じ春の雪だった。
喪服に舞い落ちては消える儚さに涙も出なかった。
火葬場でついに棺から手を離したとき初めて泣けた。

やっと葬儀が落ち着いて平穏な日々に戻ろうとしていた3月11日。
初七日も過ぎて気分転換に友人のライブに行こうとしていた時、「今から行くね」と連絡した瞬間、乗っていた電車が立っていられないほど大きく揺れて急停車した。

東日本大震災だ。

祖父の遺体につきっきりで、祖父母宅に泊まり込んでいたところを、やっと自分の家に帰っておめかしして出かけたのに、再び私は自宅に帰るルートを失い、祖父のいなくなったその家を尋ねた。
東京でも電車は2日は動かなかった。
合流した父と祖母と一緒に怯えながら眠った。
この頃から私は不眠気味で、人よりずっと遅い時間に眠ることしかできなくなっていて、消息のつかめない友人の情報を集めたり、やっと連絡のとれた友人と安否確認をして安心したり、携帯を握りしめて床でごろごろしていたその時。

祖父の眠っていたベッドサイドの下にポッキーの破片が落ちているのが目に入った。

戦争を体験し、家を失い、日本に帰ってきた頃には死んだと思われていた祖父は、反動なのかジャンクフードがとても好きだった。
ポテトチップスやミレーのビスケット、それから菓子パン。チョコレートや、ポッキーのようなお菓子も大好きだった。
死ぬ直前まで、きっと戦争で食べられなかった贅沢品を美味しい美味しいってベッドで食べてたんだな。
おばあちゃんが見たら「夜中に歯磨いた後に食べるのやめなさい」って怒るから、きっとこっそりベッドに持ち込んで……。
そう思うと涙が止まらなかった。

翌朝目が覚めると空は快晴。
東北で数えきれない人が命を落とし、行方をくらませ、多くのその家族が悲痛な思いを抱えてることなど、天は知らない顔で。
初めて神様なんていないと思った。
もしいたらこんなにひどいことするだろうかって。
そんな神様なら私は要らなかったから。
現実の空が晴れていても私の心は土砂降りだった。

祖父が亡くなったばかりの祖母を支えるために父は祖母宅に残った。
母は母で、母方の祖父母には介護が必要だったので、そちらへ向かった。
ひとりっこの私は、誰もいない自宅で、余震に備えてダイニングテーブルの下に布団を敷き、計画停電について友人から教えてもらい、空っぽのコンビニの棚からなんとか手に入れた冷凍のエビピラフと、風評被害で売れ残ってしまっていたスーパーの東北産の野菜を食べて数日を暮らした。
眠れなかったからずっとやまだひさしさんのラジオをつけていた。

しばらくしてやっと流れた普通のテレビ放送は、ドラえもんの『のび太の結婚前夜』で、しずかちゃんとお父さんの会話を聞いて離れた場所にいる父を恋しく思い気づくと泣いていた。
ミュージックステーションで自分と同年代のNYCの子たちが『勇気100%』を歌っているのを見て心打たれた。

そして19歳になった。

14歳で「空虚」になった人生。
その空き箱のような心の中に大きな「絶望」が放り込まれた19歳の春だった。

元々、今もし告白すれば壮絶ないじめとまで言われてもおかしくないレベルの嫌がらせを受けても
「ああ、小説家になれるなら別に平気」
と思っているおかしな子だったし
「空虚」になった後もなんだかんだ物語を紡ぐことから離れられず芸術の道を選んだ珍しい人生だったから、世の中との軋轢から病気になることなんてほぼほぼ決まっていたのだろう。
神様はいないとしても運命が存在するならまさにこのこと。

私は双極性障害という診断を受けた。

少し砕けた文章に変わるけれど、躁鬱ってやつは治らない。
原因は未だ不明だけど精神疾患ではなく脳病とカテゴライズされる。
脳の神経伝達のエラーによって、自分で気分のコントロールができなくなる“障害”である。
ハイテンションな時は多弁になって要らないことまでべらべら喋ったり早口でまくしたてるような口調になる。自分でも気づかないうちに散財してたりお酒をたくさん飲んで泥酔してたりもする。
そうかと思えばベッドにはりついて起き上がることもできず、生きる意味についてじっと向き合いながら死にたい気持ちと闘って過ごすこともある。
投薬治療が有効とされるが残念ながら完治はしない。
寛解といって、症状がおさまることはあるが、うっかり薬を飲まないとすぐ再発する。
その薬も肝臓や腎臓に負担の大きいものが多く、定期採血が必須。
寿命は自殺してしまう人がいるということを除いてもだいたい60歳くらいとされ、健康で一般的な日本人の平均寿命よりかなり短いらしい。
原因は心臓発作などの突然死が多いとのことなので、やはり薬の影響で循環器に影響が出てしまうものなのだろうか。
体質に合わない薬を飲めば記憶や意識が失われたり、めまいが1か月以上続いたり、吐き気や冷や汗が止まらなくなったり、座っているだけで全身を虫が這いずるようなかゆみに襲われたり、悪夢ばかりを見て叫んで起きたり、酷い頭痛に見舞われたりもする。
そんな毎日を送っていればもちろん死にたくなることはしょっちゅうで、ちょっとでもトリガーに触れればすぐに死に方を探したがる、そんな病気だ。
専門的な知識は調べてもらうとして、私の体感ではそんな感じ。
当然普通には働くのが難しいし周りの理解がなければ迷惑もかける。
中には差別的な目で見てくる人もいるし実際私自身、認めたくない時期もあった。
それでも突き付けられた病名と一緒に、生きていかなくてはいけないのだ。

さすがにこんなところまで流れ着いてまだ文章を書こうだなんて思っていなかったのだけれど、ひょんなことから父に「作詞をしてみないか」と言われた。
詩は好きだった。
銀色夏生さんの詩集は擦り切れるほど読んだ。
小説が行き詰まった時や、プロットが進まないとき、散文的に詩を書いたり、物語の種になるのではないかと書き留めた数行をまとめて詩にしたりもしていた。
まずは松任谷由実の『卒業写真』から学び、父に作詞のノウハウを教えてもらった。
文章が好きか嫌いかはさておき得意だった私にとって、限られた文字数やテーマ、インスピレーション、曲との相性を考慮しながら、パズルのピースを嵌めていくような作詞の作業は嫌いじゃなかった。

何曲か提供することもできた。
CDになったものもいくつかある。

そんな風にして「好きじゃなくても得意ならやってみる価値があるかも」と思った私は気付くとライターの仕事をしていた。
ただ、文章だけで食べていくのはそれもそれで恐ろしかったので、もちろん一般企業で会社員もして、副業的に書き続けていた。

たまに見学ついでに頼まれてライブレポを書いてみたら、反響があったりもした。
それでお仕事をいただける機会も増えた。
ライブハウスが私の「家」になった。


―――で、紆余曲折あって、
結局大学を出る時には何の因果か絵本がテーマの論文を書いて卒業した。
学生時代〜就職直後くらいにかけて大恋愛と別れを経験し、復縁占いジプシーになってしまった。心を癒すために金に物を言わせて色々な先生に見てもらってもなんだか怪しいとしか思えなかった私は「こんなの詐欺じゃん、全然当たらないじゃん、都合のいいことばっかり言って人を騙す占い師なんて最低!」という思いから何故か自分が占い師になった。
占いやスピリチュアルな世界が大好きで信心深かった祖父からもらったタロットカードを相棒に。
引き続きライティングの仕事もぼちぼちやっている。音楽のレビューは相変わらず得意分野だ。
会社員は会社員で営業トークやセールスの文章を書くのが得意だったので、ほどほどに長続きしたものの、病気の悪化やコロナの蔓延も重なって東京で働くことを諦めて地元に引っ込み、なんとなく目についたので造園屋になったりもした。
あの時のレンガ重たかったな、でも植栽の手入れ楽しかったし、新築の図面とか見たらワクワクしちゃったな。
そんな時、音楽の趣味があう、同世代の現場仕事をしている男性に出会い、占い的にも良い相手だったので彼氏になった。
コロナ渦でどこにもいけないし、家デートばかりだと独り暮らし同士はもったいないからと早々に同棲した。
私の病気に理解を示してくれたものの、やはり法律上入籍していないことには何かあった時の支えになれないということに気付き、結婚した。
被害者ぶるのは嫌いだけど、背負うものが多すぎた私が誰かと結婚できるなんて思ってもみなかったし、両親や親族にも期待しないよう重々伝えていたのに青天の霹靂だったと思う。

そして花を愛する母の背中を追いかけて花屋に転職した。
ずっと会社員や物書きで、パソコン作業しかしたことない私にとって体力仕事の花屋はぶっちゃけ相当キツいが、それでも美しいものに触れると心が満たされる。
猫も飼っている。
温かくて愛しくて、命の尊さを感じる存在だ。
いつの間にか競馬が好きになった。
やはり一生懸命に人馬一体となって走る姿には毎回感動する。
持病が悪化した時に自宅療養中のひとつのワークとして始めた編み物にすっかりハマってしまい、ハンドメイドにも目覚めた。
相変わらず海外文学や日本の文豪作品は好きだ。
音楽に関わっていたこともあり、J-popはもちろん、ロックやHIPHOPの歌詞を分析するのも好きだ。
心のオアシスとしてちゃんと二次元の推しもいるし
目の保養としてアイドルの推しもいる。


生まれたときから首吊り未遂。
初めて見た景色は春の名残雪。
挫折を何度も経験してボロボロになった私の人生には常に雨が降り注いでる。
いつか晴れたら虹が見えるだろうか。
せめて天気雨の日もあったらいいな。
小雨の日には少し前向きになれる。
土砂降りだってもう慣れた。
今だって絶え間なくそれは降り注いでいる。
一度「空虚」を味わい、「絶望」を噛み締めながら、治らない病気と共存している私の心にはいつでも雨が降っている。

でもその音色が、その恵みの雨が、何かを生み出すきっかけになっている。

そしてどんなに辛く痛々しく降り注いでもそばに傘を差してくれる人がいる。
家族と友達だ。

せっかくこんなに降ったなら
いつか誰かに届く時には
恵みの水となって渇いた心を潤して
そして青く美しい海になれたら1番いいと思う。

だから私は自分にその名を宿した。
いつか祖父とまた逢えるその日まで
あと1日、あと1日だけを、繰り返して生きていくつもり。


ずっと雨でも。



雨音 琴美



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