他人と自分自身に認められたかった話

 ずっと、何かに秀でていて、ほかの人から凄いと思われるような人になりたいと思っていた。承認欲求の塊じゃねえかって言われても否定はできない。自分の外側にいる人にとにかく認められたかったんだ。
 でもそれだけではなくて、自分のことを認められる人間にもなりたかった。努力した結果であれ身に着けた技能であれ、何でも良いから独力で得たもので自分自身を凄いと思えるようになりたかった。

 最近、ちょこちょこネットで人の人生を眺めるようになった。成功した経験談が多いかも。上ばかり見るのは人間の習性なのかもしれないな。
 ネット上にある他者の人生、例えば「ストーリーズ」にある人生を大きく変えた話や「note」に書かれている成功した経験談を読むと今でも思う。人から認められたい、自分を誇れるようになりたいって。いつもそう思う。
 馬鹿だったけど海外の名門大学に受かっただとか、底辺から這い上がってビジネスを成功させただとか、ついつい読んでしまう。自分に近い人の話だって錯覚してるからかな。


 ネット上にある経験談を見ていると、努力で高いところまで登っている人たちの中に、元々社会的にすごく低いところにいた人たちが少なくない数いるんじゃないかって思うようになった。例えば、元ヤンだったり極端に偏差値が低かったり。こういう人たちは、極端から極端に行っている感じなのかな。
 なんか、悪や馬鹿だとかいった、大多数の人が敬遠する方向に突っ走れるのも一つの才能なのかもしれない。一つの方向に振り切ることができる力を持っている人は、なにかのきっかけで向かう先が変わったとしても、同じように進み続けられて極められるんじゃないかな。

 そういう点からすると、自分は賢人にも愚者にもなれない中途半端な存在なのかもしれない。宙ぶらりん。むしろ標準よりほんのり下。
中程度の大学には行けたし、キチンとした仕事もしている。人間関係にもとりあえずは満足している。でも、どこか何かに納得のいってない凡人A。人生に対する得体の知れない不満足を解消できなくて、薄く広く悶々としている。きっとこれは、インターネットで他人の人生を垣間見なければ発生しなかった心のわだかまりなんだと思う。
 こんな凡人にも好きなことはある。でも、それは毒にも薬にもならないこだわりで、単なる時間つぶしに過ぎない。なりたい自分になるための対価にするには圧倒的に足らない。支払うには消費者金融を何件もハシゴしなければならないレベル。

 もう子供じゃないし、何の努力もなしに一門の人間になれる夢は見ない。その代わり何かをすることもない。頭の中で欲望が渦巻いてるだけ。
 今後自分はどうなるんだろう。努力が必要なことは知りつつ、ただ諦観を文字に乗せるためにキーボードを叩くだけの、大人未満の存在でい続けるのかな?(この疑問符は無意識に見出した仄かな希望だと思いたい)


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