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アイドル産業と欺瞞

最近、『推し、燃ゆ』(著: 宇佐見りん)を読んだので、近年ブームの韓国アイドル産業について語りたい。

私にも、アイドルを推していた時期はあった。高校三年間、推していた人がいた。

しかし今となっては、空虚な三年間であったと自覚している。

私の高校は良くも悪くも『真面目』で、芸能に興味がない人が大半であった。私も最初はその一人であった。

しかし、私はクラスのある子と仲良くなりたくて、彼女の推していた人を一緒に推し始めたのだった。

ところが、今では彼女と疎遠になり、集めたグッズをどうしようかと悩んでいる。

メルカリを眺めてみたりしていると、変な気持ちになった。

推しの顔に、値段が付けられている。

そこで初めて、芸能界のシステムに疑念を抱いたのだ。

メルカリだけではない。

『アイドルが売れている』とはどういう状態を指すかというと、

・顔などの外見
・ファン一人一人が型にはめようとしている『人間性』
・パフォーマンス力

によって、円盤やコンサートという『形式』に高い付加価値が付けられている状態。

つまり、見た目等に魅力がなければ、売れない。

アイドルの価値は、外見のみである

ということ。この『外見』は、『外から見られた本人』という意味である。

ここで私は、ある程度の時間、ろくに会話したことのない人間にお金を払うのは、人間に対する冒涜なのではないかとさえ思ってしまった。

もちろん、アイドルをここまで本格的に推さず、完成されたミュージックビデオがきれいだとか、曲が好みだという理由で『作品を鑑賞する』のは分かるし、現に私もそうしている。

また、アイドルにファンが勝手に当てはめる『人間性』も、アイドル関係なく人の第一印象というのは見た目から成るものだから、それ自体は否定しない。

ただ、私の『空想上の生き物』に、お金を費やす意味を見失ったのだ。

そこで、最近私が問題視していることがある。

アイドルを目指して当たり前のように小中学生がテレビやSNS等に出演するケースだ。

ついこの前までは、中学生アイドルがデビューすることすらも珍しかったが、今では小学生がメディアに露出するケースも多い。

親や会社が、若い子に厳しい食事制限やトレーニングを強いてメディアに露出させるのは、一種の虐待ではないかとさえ思う。

映像は永遠に残り、広がる。

また、子どもが受ける精神的・身体的ダメージ(大人になってから発症する場合も然り)も考慮されていない。

しかしこれを言うと、クラシックバレエや子役など、子どもが作品の一部となっている他の仕事の場合はどうなるのだという反対意見も考えられるため、私なりの結論を言いたい。

伝統というのは欺瞞である

ということ。
「アイドルは若いうちからなるものだから」という伝統が理由で親が事務所に入れるのは、悪しき欺瞞である。

確かに、若い頃から事務所に入ってデビューするのは、ここ数年で一般的になってきたところはある。

アイドルの若年化という伝統に存続すべき理由があるのであれば、放っておいても長く続くだろうし、変化する理由があるのであれば、勝手に変わっていく。クラシックバレエや子役文化も一緒である。

すでにある現象を、さも守らなければならない伝統として子どもの未来を無視して遵守するのは、大人の愚行である。

幼い子どもが痩せ細っていくことで儲ける大人が沢山いるということは、(どんな業界であれ)今後表層化しなくても問題として改善されるのではないかと私は考える。

そんな子どもたちが、大きくなって、教育を受けられなかったことや、芸能活動を後押しした親を憎むのは、悲劇である。




見た目だけしか知り得ない、実態を知らないアイドルをさも心の拠り所として推すことで快楽を得る文化は実質宗教のようなものだ。

そして、自分の好きな外見をもつアイドルをピックアップして自分の好きなように読解していくことは、買春のようだ。

このような文化は永遠に残るし、需要があるならば汚い大人も居続けるのだろう。

作品性に於ける『人』のありようが、今、改めて問われているように思う。

問題意識をもつ私としてできることは、ただ何もせずアイドルというビジネスから遠ざかることだけなのだろう...

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