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【エッセイ】コントロールできない母との距離感。いつかまた、私は母を甘やかすだろう

私は何歳になっても、母との距離感がつかめない。ほどほどに仲良くしてきたつもりだったが、何度か衝突したこともある。


私は今年で41歳。ひとりっ子だ。未婚だが、パートナーとは8年付き合っている。父は、私が小学6年生のときに病死した。父方の親族とは疎遠になり、母方の親族とは今も交流がある。

私の母は、73歳になった。2022年の1月、脳出血で倒れ要介護4の認定を受ける。2023年には特別養護老人施設に入所し、介護なしには生活できない体になってしまった。

私には、コンプレックスというか「ほかの人にはない」経験がある。それは父の闘病のせいで、母に甘えられなかったことだ。

ピカピカの小学1年生だった私。

運動会も終わって6月ごろ、父は外出先で倒れ救急搬送される。脳に異常が見つかり、緊急手術となった。それからは半身麻痺のためリハビリしたり、あらたな病気も発症したりで入退院を繰り返した。

小学校が長期休暇に入ると、母は私を祖母の家にあずけるようになる。また違う時期には、母方の親族が家にいてくれることもあった。母の親友宅から、小学校に通った時期もある。そうすることで母は、父の看病に専念した。

祖母の家で規則正しい生活を過ごす7歳の私。

夜は、仏間も兼ねた大きいおばあちゃん(曽祖母)の部屋で一緒に寝た。親族が家に寝泊まりしてくれたときは、母なら許してくれていたことを「行儀が悪い」と叱られ、ケンカになったこともある。でも、作ってもらった遠足のお弁当は、母よりもおいしかった。

いちばん記憶が曖昧なのは、母の親友宅にお世話になっていた時期だ。シングルマザーで3人の子どもがいる家庭に、よく居候させてもらったなと思い返す。私は当時、借りてきた猫状態だったのだろう。やはり、記憶は曖昧だ。

私が小学6年生になってからすぐ、父にがんが見つかり再入院する──。


その年の夏。日陰を選んで母と2人、歩きながら病院から帰宅していた。途中、短い会話が交わされる。


「お父さん、もういつ亡くなってもおかしくないって」

「わかった」


12歳の私には、まるでドラマのワンシーンを観ているかのような、現実味に欠けている会話に感じられた。それから数ヶ月後、父は末期の喉頭がんで46歳という短い生涯をとじた。

父の葬儀後、私は空気を読んだ。周りに心配をかけてはいけないと、無理をして明るく振る舞った。それにこれからは、母に甘えられる。

「母と一緒に出かけたり楽しく過ごしたい」

父には悪いが、内心ホッとしていたのは事実だ。しかし、歳を重ねるごとに母の表情に変化があらわれはじめる──。


抑うつ状態となり、私が働けなくなったのは29歳のとき。

私たち世帯は、1年弱生活保護を受けていた。職場を退職し、普段いなかった時間に私が家にいる。この状況に、母は息苦しさを感じてしまったらしい。語気を強め、こう言ってきた。


「うじうじしてるあんたの顔を見たくない、どっか行ってちょうだい」


心が弱りきっていた私には、堪えられなかった。私は生活保護受給中にもかかわらず、家出してビジネスホテルを転々とする。人生ではじめて、母と別居した。

ただ別居したことで、お互いの距離感みたいなものを意識したのかもしれない。少なくとも私はそうだ。別居を経て、再び一緒に暮らすタイミングで引っ越しをした。

数年間は何事もなく、それでも母の顔色をうかがいヒヤヒヤしながら過ごした。


今から3年前の秋、祖母が亡くなった。しかし母は、実母の葬式に行きたくないと言いだした。家族葬で、何より母が長女なのに行かないとは何事か。

私は気がつくと、母にきつく怒っていた。小学生のときお世話になった祖母への申し訳なさも込み上げ、私の感情は迷子になる。

けっきょく、私は母を甘やかしてしまった。母の代わりに、私は家族葬に参列する。肩身は狭かった。やはり説得して参列させるべきだったのか?

このときとうとう、母と距離を置こうと決めた。それだけ母を面倒な存在だと認識した、大きなできごとだったのだ。

祖母が亡くなった翌年、2022年1月。

今度は母が脳出血で救急搬送されてしまう。リハビリを拒否し続けた母は、要介護4の認定を受ける。私は、どうしたって母と離れられない運命なのかと、毎日泣いた。

親族の助言もあり、自宅で介護はせず、母を特別養護老人施設に入所させることに。母は左半身マヒにもかかわらず、這ってでも自宅に帰るときかなかった。私はその願いを知り、ひどく苦しむ。

今度ばかりは、甘やかすことはできないのだよ、と。

3年前に母と距離を置くと決めた私は、母を施設に送り、ホッとした。しかし、終のすみかを用意したから終わりではない──。


いまだに私は、母との距離感を掴めないでいる。私たちは、大切な時期にじゅうぶんなコミュニケーションが取れなかった。正直、今でも知人のSNSで、子どもが楽しそうにしている投稿を見ると嫉妬してしまう。

やはりコンプレックスなのか。それでも、母を憎んではいない。それどころか、私はまた母を甘やかすかもしれない。そんな気がしている。

なぜなら、母が大好きなTHE ALFEEの『星空のディスタンス』の歌詞のように、距離が離れていても“心は求め合う”はずだから。

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