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ぼっちじゃなくて孤高なんで。よろしく。

私は高校時代にぼっちになってしまう時期があった。今思うと仕方ないな、人生そんなもんって思えるけれど、当時はすごく嫌だった。私には、一緒にご飯を食べている友人が一人だけいた。でも、ある日その子が私の行動に腹を立てて(私がふざけすぎたんだと思う)、一緒にお昼を食べなくなった。学生時代お昼ご飯を一緒に食べる人がいないというのは、わたしにとって耐え難いことだった。これから先、体育で2人組を作る際に余っちゃったら?修学旅行で班決めの時にどこのグループにも入れてもらえなかったら?と私は恐怖でいっぱいだった。(実際は誘ってくれる子がいた)
他のお昼ご飯を一緒に食べているグループの子が誘ってくれたことがあった。「〇〇ちゃんも一緒にご飯食べる?」って。
当時プライドがチョモランマ級に高かった私は、取り残された私を仲間に入れてくれるなんて、優しいけれど、あなたの優しさを証明するために私を使わないで。と思っていた私は断った。我ながらひねくれすぎでは???(笑)さらに、その子が私みたいに何となく敬遠されている子をグループに入れてあげているために、そのグループの治安は最悪だった。修学旅行先で喧嘩して、空港の椅子を蹴りながら、「死ね!」「そっちが死ね!」みたいな喧嘩をしていたらしい。それを聞いて、あ、入らなくてよかったと思った。私は自分を曲げるのが嫌いで、そこまで他人に興味がないくせに、一人でいてかわいそうと思われるのが嫌だったのだ。

しかも、私は自分の好きなことがしっかりあった。だから、最終的に一人になることを選んだんだと思う。登校は何時も一人だったし、帰りにきれいな海辺によったり、レコードショップで海外の曲のCDを探したり、アニメイトに行ったり。授業の合間にロシアの古い政治家のビデオを見たり、本を読んだり。あとは、家に帰ってお菓子を作ったり。ロシア語勉強したり。戦車のプラモデルを作ったり。誰も知らないような海外映画を借りてみたり、アニメを見たり。
あー書いてたら、苦しかったと同時にすごく充実した日々を過ごしていたんだなあ。私の人と交流することが少なかったためにたまっていた、エネルギーはきちんと私の好きなことをするために使われていたのだ。ありがとう、私。

私がぼっちだった高校生活を抜けて大学生になって思うことは、私は一人があってる、ということ。でも、それは完全に周りをシャットアウトすることじゃなくて、信頼できる数人の友達がいて、自分と向き合える時間も用意することだ、という結論に行きついた。私は考えすぎでエネルギーの減るスピードが速いから、あまり多くの人といるのが得意ではないと気づいた。自分をさらけ出すのは怖いけれど、個性を殺して生きるのは嫌だ。好きなものを一人で追いかけたい。だから信頼できる数人の友達でいい。その人たちと心地いい自分でいたらいい。見栄を張らずに(たまにチョモランマ級のプライドが出てくるけど)、一緒に先の見えない未来にむかって励ましあいながら前に進めるといい。
そして、私は友達に行動力をほめられることが多いけれど、これは一人だからだと思う。一人だと好きなことを追求できるし、なんでも友達と行動しようとするとなかなか計画が前に進まなかったりする。決定権を自分が持っている実感を持てるようになって人生にたいして主体性が生まれた。一人で解決せざるを得ない状況に何度も出会っているからこそ強くなれた。こそこそしなくていい、堂々と一人で好きなことをしたらいい。他人をシャットアウトしていなければ、必ず誰かが助けてくれるし、仲良くなれる人は見つかる。
そして最後にひとつ。大学生になって、高校の時の友達にあった時に気づいた。私、友達いたんだ、って。私はわたし人間的な魅力がないから友達なんてできないし、いない、って思っていたけど、きっとその子は私のこと友達だって思ってくれてた。だからこそ、大学生になっても彼女が帰省した時に私と遊んでくれるんだ、って。

そんな私はもうぼっちではない。幸せな孤高だ。


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