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自分の言語能力の低さを理由にアウトプットを放棄してはいけなかったという戒め
考えていることを文章でまとめるのが上手くなりたい!
そんな気持ちが強いが故に、自分の文章化の下手さ、視野の狭さによって、1つの物事に対する解釈の浅さを露呈するのが恥ずかしい。
「これ好きだと思う……でもどの辺が好きだったかと問われると難しい……」と曖昧な自分の気持ちを「理解力が浅かったらどうしよう」という恐れや、「誰かが既にまとまった言葉にしているだろうから考えなくてもいいか」という面倒臭さから、snsに流れる多数の意見に頼ってしまう。
自分の意見をちゃんと持ちたいと思っているくせに、「これ面白い!」と感じた作品が世間的には不評であったとき、周りから置いてけぼりになったようで怖くなる。もちろん逆も然り。
これらは私が常に抱えているコンプレックスだ。
文章化するの恥ずかしい、面倒臭い、多数意見と違ってたら怖いと思っている人間なので、自己紹介や大学のゼミといった発表の場や他人との会話が嫌いだった。口から出ている一言一句が自分という人間の価値の低さを証明しているようで、「私のような劣る人間が存在してすいません……」と心の中で虚空にひたすら謝っていた。
映画やジャンプの新連載を見た時「これ好きなのかな? どうなんだろうな?」と抱えている曖昧な気持ちを十分に言語化せずにパブサをして、そこで1人が駄作だと言えば「なんだこれは駄作なのか」と思って見るのをやめた。逆に、数人がベタ褒めしているやつとか、『おすすめ映画紹介』的な内容でバズっているツイートの内容から、そこまで高評価ならばと見てみたものの、それが個人的にイマイチだった……な時は「いやでも私の感性が鈍っているだけでこれは面白い……面白いんだ……」と、ベタ褒めの意見に合わせようとしていた。
まるで宿題が面倒だからと答えを全部書き写しちゃう小学生みたいだが、そもそも創作物に対する好みは人それぞれなので『この作品が好きだから君は正しい』なんてことは絶対にないはずなのに……。
とにかく私は「上手くまとまらなかったら恥ずかしい」「大多数の意見じゃなかったら嫌だ」「もう考えることも面倒臭い」などと言い訳をして考えることを放棄していた。そしてsnsの発言一つ一つに引っ張られていた。
でも最近は、自分の意見をちゃんと言語化するまでは、snsでパブサをしたり、YouTubeのコメント欄を見たりしないことを意識している。本の解説も、自分で読み終えて、自分なりの感想をまとめてから読むようにしている。
今更気づいたのだ。誰かの言葉に同調したり、「エモい」などの便利な言葉で済ませてしまうのって、結局主体性が無いのに等しいのではないか? いやそういうやり方も一概に悪いとは言えないけど、でも創作者を目指しているなら、「面白いと思ったところ」「面白くなかったところ」をちゃんと追求するべきでは?
自分でも本当「今まで何やってたの?」って呆れ返るけど、自分に対する理解を深めるためにも、物事に対する文章化を頑張る!
……などと口で言うのは簡単だけど、やっぱり自分が感じ取ったことをまとめるのって難しい! 大海原から人の住む島を見つけ出すことくらい難しい……けれど今日も諦めずに言葉を探しています。
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