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いのちは闇の中のまたたく光

https://www.tokyo-np.co.jp/article/253622

原発の60年超運転を可能にする束ね法「GX(グリーントランスフォーメーション)脱炭素電源法」が31日、参院本会議で与党と日本維新の会、国民民主党などの賛成多数で可決、成立した。老朽原発の長期運転や原発産業への支援強化などが盛り込まれ、東京電力福島第一原発事故後に抑制的だった原子力政策の大転換となる。

ニュースを読みながらグリーントランスフォーメーションという響きにイラッとしつつ、東日本大震災の日のことを思い出した。

職場のTVから原発爆発のニュースが流れてきてざわつく休憩室。

同僚のひとりが、

「え?絶対大丈夫だよ。うちのおじいちゃん原発で働いてたけど、そんな簡単に壊れるものじゃないよ」

と、心配するなんてバカバカしいと言わんばかりの声色で言い放った。

おじいちゃんが原発の安全性を信じて孫に伝えていたことも、原子力の研究者でもなんでもない孫がおじいちゃんの言葉を信じきっていたことも衝撃だった。

GX法のせいでこれから絶対に原発事故が起きるとは限らないけれど、そもそも事故が起きたときに取り返しつかないような、人間が制御できないエネルギーを使いつづけることが危険だと思う。

一度事故が起きれば人間だけの問題ではなくなり、生きとし生ける物たちにツケを払わせることになる。それを推進することに私は賛同できない。

賛成派は電気が足りなくなったり電気代上がるくらいなら原発稼働やむなしと考えているのか。
それとも本当に安全なものだと思っているのだろうか。

家計を圧迫する電気代は目の前の問題として大きいだろうけど、お金や銀行の仕組みや成り立ちを知っていくと、そもそもこの世っていろいろなんか変じゃない!?とみんな思うのではないか。思わないかな?

お金は幻(雑に言う)なのに、生きるためにお金が必要だと強く思わされて、お金の価値を強く信じ込まされるほど生きることの本質を見失ってしまう。

これは「陰謀論(笑)」とかじゃなく構造の話、、、という話を始めると、農や種の話にも繋がってとてつもなく長くなりそうなのでやめておく。

ときどき孤独を感じるのは、ネットの世界では見かける主体性のある人にリアルな世界で自然に出会うことが少ないということ。

そういう集い?みたいなものに行けば出会えるのかもしれないし、話せる人しか自分の周りにはいないという人もいるかもしれないけど、私の日常の中でほぼ出会わない。

たまに、この人は口にしないだけで実はいろいろ考えてたり?と勝手に期待して、政治や社会問題の話をぶっ込んでみることがある。だいたい結構な確率で胸がざわつく結果になる。

例えば、私より年上で2人の子供がいる人に「駅で自分に挨拶してくれた人に投票してる」と笑いながら言われたり、元自○隊の方が何も考えずに毎回自民党に投票していることが発覚したり。

選挙だけで世の中が大きく変わるとは思ってないけれど、こういう言動をしているのが大人であり人の親だということに不安になる。

自分たちの暮らしに関わる世の中の問題は茶飲み話でもどんどん話すべきで、大人同士で話すことがエンタメやグルメ、恋愛、他人の噂話、生活の話「だけ」で、政治や社会問題の話はしちゃいけない空気、むしろ「知らない」から「できない」という状態がヤバイと思う。

これは日本の教育の中で自分で考える練習をほぼしてこなかったせいなのだろうか。少なくとも私が通った学校では、協調性を持ってみんなと仲良く、先生やリーダーに従う、意味がなさそうなルールを守るといったことが大切だと教えられた。

掘り下げてじっくり自分の頭で考えみる、意見が異なる他者と議論や対話をしてみる、そんな教えはほぼなかったように思う。だから深く考えないことも、SNSで大人が子供のケンカのような煽り合い合戦をしてしまうことも仕方ないことなのかもしれない。

対話の中でお互いの落とし所を見つける練習をして、意見が違っても交流できる(もちろんできない相手もいる。でもお互いがボロボロになるほど戦う必要はない)ということを自分の体験から学んでいく機会がもっとあればよかったと思う。

よく思うのは、もし人間より高次の存在が地球を守ろうとするなら、真っ先に人間を駆除するだろうということ。

歴史の中で争いをつづけてきた人間という生き物は、自然や他の生き物、同じ人間さえも、管理し支配しようとしているように見える。

私はこういう↓神への挑戦?みたいな発想も気持ち悪いと思ってしまう。

できないことや不便なこともあっていいし、結果よりも過程を味わって、日々ちゃんと生きてちゃんと死にたい。

でもそう思えるのは特権なのかもしれないとも思う。ハンディキャップで日常を苦しみながら生きている人たちや、いろいろな要因により死を恐れる人たちにとってはテクノロジーの発展は希望になるのかもしれない。

純粋に、人類の進化だ、世界がもっと便利になって幸せに生きるための技術革新だ、とワクワクする人たちもいるのだろう。

そもそも破壊と再生・発展はセットなので、人間というものは宇宙の中でそういう役割を担っている存在なのかもしれない…と思ったりもする。

(唐突に)私は「風の谷のナウシカ」の原作が好きだ。初めて読む人はみんな、こんな話だったの!?と衝撃を受けると思うのだけど、私もそうで宮崎駿の頭の中って一体どうなってるんだろうと思った。

終盤に出てくるのナウシカのセリフが特に好き。

そなたが光なら、光など要らぬ

巨大な墓や下僕などなくとも私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる

私達の神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ

風の谷のナウシカ

墓の主の言葉が本当ならナウシカたちに未来はないのかもしれないけど、エンパワメントなくして真の自由は感じられないからあれはあれでよかったと思う。

永遠に咲いている花がないように全てが変化していくことは真理で、生き物は毎日生きながら毎日死んでいる。老いも死も生の一部。死や絶滅は悪いことでも負けでもない。

……noteを書き始めると、思考があちこち彷徨った挙げ句、だいたいいつも人生とか生き死にの話になってしまう。

そしていつも締め方がわからない。

この先、人間がつくりだすモノができるだけ自然の循環の中にあってほしいと思う。それが命の在り方、生き方として正しいと私は感じる。

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