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奇禍に遭う 新宿編 1(中編小説)



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名前を呼ばれて振り向いた。
よう子さんの茶目っ気を含んだ笑顔が背後にある。

「北村さん、お店の予約をどうもありがとうございました」

人でごった返す金曜夜の新宿東口の駅前だった。
すらっとして着こなしよく派手すぎないスーツ姿を見ながら北村は笑顔を返す。

「面白い所も探せなくて、こんな駅近ですみません」

取引先のよう子さんが今日付けで退職をする。
今夜の送別会には北村も呼ばれていた。
新宿支店に配属になってからずっとお世話になりっぱなしだった。年は下だが北村にとっては自社の同僚よりも先輩のような存在だ。
やあ、よう、と口々に声をかけながら集まってきた周囲の笑顔に、北村は頭を下げて挨拶をした。

まだ時間は早いが、新宿大通りは仕事が引けたばかりのサラリーマンの群れでごった返している。
飲み屋はすぐそこだった。北村が先導する。

「無理に誘ってごめんねえ。今日はあまり長くはいられませんけど」
「いや、だって本当にお世話になりましたから」
「奥さんは?」

歩きながら聞いて来たのは競合他社のメンバー、呉だった。彼も北村同様に呼ばれている。
商売敵のこちらはさらにずっと長い付き合いだ。

「うちのは大丈夫」
「いいな北さんは理解のある奥さんで」

曖昧に笑って黙っていた。否定するのも肯定するのも変に思われた。
あまりうるさいことを言わない呑気と言うより能天気な妻なので、かまわなくても文句が出ない。
背中合わせでほっといて欲しいながらも子供のことだけはがっちりと連携をしてお互いを確認する。
居心地のよさをどうこうするつもりもなかった。このままがいい。


*  *  *


集うのはみな似た者同士だから飲み会は楽しみだった。
接待や取引先という堅苦しい言葉からは程遠い。
規模も支店同士のローカルな付き合い、年齢もほぼ四十代から上で、唯一の三十代がよう子さんともう一人の女性みらいさんという面子だった。全員が既婚者だ。
無軌道に騒いで場を無理に盛り上げるようなタイプもいない。

店を決めるときに北村は迷った。
ここは新宿だ。飲み屋なんて星の数ほどある。
歌舞伎町に入るほど無謀ではなく、かといってゴールデン街を気取るほど通でもなく、まして主賓は女性だ。帰りやすく駅に近い場所がいい。
三丁目あたりなら飲み屋が集まっているしまあ無難だろうと何軒かピックアップした。
メール送信してほっとする。あとは選んでもらえばいい。

彼らの業種は斜陽だが需要がなくなりはしないから、腕を組み合って踏み止まる連帯感があった。
よう子さんとみらいさん、この二人はタイプは違えど仕事仲間としてはベテランで上司にも受けがよい。
特によう子さんに対してはみな名残を惜しむ心がこもっていた。
北村もお愛想ではなく心底から頭を下げた。

「本当にお世話になりましたから」
「こちらこそ」

よう子さんは優雅に頭を下げてロングの髪が肩から斜めに落ちた。

ふと目の前を見て、北村はぎょっとした。
みらいさんがいつの間にか、大きな目に涙をいっぱい溜めている。
さっきからグラスが動かないのが気になっていた。
小柄で目の大きな子で、よう子さんと並ぶと小柄が目立ち、くりっとした目をしているから見た人はつい和む。しかし仕事振りはずっと苛烈で敏腕のベテランだ。
驚きを隠せない北村は、そんなに別れがつらいのかな、と思う。

「わたし…わたし…つらくてもう」

反射的にハンカチを出そうとして胸ポケットに手をやる。
それより前に競合他社の呉がさっとティッシュを取って渡してしまった。
みらいさんは鼻をすする。

「いっぱいいっぱいで。辞めようかと思っているんです。辞めたい。辞めてもいいですか」

机に突っ伏して彼女はどっと溢れるように泣き出した。
待って。
どうしよう。
思わぬハプニングに一同に動揺が走った。よりによって彼女がそんな事を言うなんて。



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