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奇禍に遭う 新宿編 2(中編小説)



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この場にあって一番の上役である瀬尾部長がみらいさんの隣に移動した。
静かに低く言葉をかけている。
むろん体に触れるような失礼な真似はしない。

みらいさんの叫びがこの送別会の席に奇妙に曇ったカーテンのようなかげりをもたらした。
それは彼女自身の悩みについてというよりも、このベテラン二人がいなくなる意味から想起され、呼び水のようにすうっと浮かび上がる自分たち自身の未来の暗さだ。

ここにいる誰もがいま、じわじわと縄が締まるような不安を抱えながら働いていた。
ひとり、またひとりと辞めていく。介護、鬱病、異性問題、少しでも気を抜けばノルマ達成はかなわない。
気をつけなければ。バランスが大事だ。

この猛威を振るう異常なほどの暑さの中に歩き続けながら、どこまで倒れずにいられるのかわからない。

遊びに使う金なんてない。ゲームのわずかな課金を楽しみに、スカートから出たヒールの足よりはスマホの画面に集中する。
適度にストレスを発散するように、地面に開いている穴に手ひどくつまずかないように。

二度と起き上がれなくなる。

その時、横で下を向いていたよう子さんの体がぐらっと揺れる。
戸惑う暇もなく、思いっきり北村の方に全身で倒れてきた。
あっと肩をなんとか支えながら、北村はとっさに思う。

(ばかだったおれは。新宿でそれなりに安い店を選ぶなんて)

少し異様な倒れ方だった。
こんなのおかしい。二、三杯しか飲んでいないんだぞ。
乾杯のビール。それに焼酎割?
今回は北村も含め、お酒を飲まないメンバーが多いから、飲み放題を気にする必要はないと思った。
飲んでいたのは、女性二人だけだ。

歌舞伎町の奥深くならいざ知らず、この界隈で何かを盛るようなことがあるはずもないから、運が悪かったとしか思えない。

慌てて会計をすませ、皆でぞろぞろ外に出る。
二人とも起き上がることが出来ずその場でしゃがみ込んでしまった。
道に素手を付き、背中が上下する。顔色が真っ青で息が荒い。
支えていれば歩けないほどではないし意識はある。見ている限りは典型的な悪酔いにすぎない。

どこか、座らせてあげられる場所はないか、北村は周囲を見た。
通り過ぎる人々はちらっとも見ずにほとんどが通り過ぎる。
酔っ払いなんて珍しくもないからだ。


*  *  *


この折の暑さだ。二人が手を付くアスファルトはじりじりした熱をまだ発していた。
少し擦っただけで肌から血が出そうないやな硬さだった。
みんな汗だくになっている。

一瞬、すべてがゆるやかになって此処、新宿通りの真ん中で途方にくれ暗礁に乗り上げている集団、右往左往しながらもどこにも行けずただ何かを待っている集団だけが、光と人と時の奔流の中に取り残されている。

この街には深く立ち入るべきではない一線がそこかしこにあって、用心さえしていれば大丈夫なのに。

色取り取りの看板と窓の灯りの上に霞んだ灰色の空がある。

深淵が牙を向いた。
薄笑いから今はもう大口を開けて笑っている。ネオンの牙が尖った先端を光らせて並ぶ。
変幻自在に顔を変える夜の新宿があっという間に顔を変えた。

虚を付かれたと悟った北村は、救いを求めるようにあたりを見回した。
数件先の階上にファミレスの見慣れた文字が見える。
その平凡な掲示がこの上なく安心できるサインに見えた。
北村は指さし、皆が一斉にそちらを向く。

「あそこにちょっと入りましょう」
「そうだね、少なくとも座れる」

瀬尾部長が賛成した。
同性から見ても落ち着いて顔立ちも整っている。誰もが一目置かずにはいられない風格のある人だが、この事態にはさすがに狼狽しているのが見えた。
よう子さんとみらいさんは、お互いを支えあって座り込んでいる。

男四人がかりでぐったりした二人を運び、エレベーターで昇る。ファミレスは雑居ビルの四階にあった。
どやどやと入ってきた男四人女性二人の集団、しかも女性は二人とも気が抜けたように抱きかかえられている。
バイトの店員が目を見張ったが、無視してテーブルに座らせた。

セルフの水を取って促すも、よう子さんのぐんなりした手は下にだらんとぶら下がっているだけだった。指輪が白い指に赤いみぞを作っている。
力を失った人の体はずっしりとして大きな石を抱えているようだった。

無理はできないかと北村がコップを引いた瞬間、今度はみらいさんの頭がぐっと持ち上がった。
急にびくびくっと喉が動いて、やばい、と思う隙をついて、噴水のように水が喉から噴き出した。

「トイレへ!」
「トイレトイレ」

抱え上げようとして何となく皆で顔を見合わせた。
二人は女性、他はすべて男だ。



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