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物語は、登場人物をいじめないでほしい。

物語の楽しみ方は、人それぞれだ。

「とにかく先が気になってしょうがない!」とどんどん読み進める人もいれば、文字の温度を丁寧に感じとって情景を思い浮かべる人もいるし、その後の展開をいろいろと予想しながらページをめくる人もいる。

わたしはといえば、完全に「登場人物入れ込み型」だ。

どんな物語……たとえば小説や漫画、ゲーム、アニメでも、好きなものには好きなキャラクターがいる。そして、そのキャラクターをひたすら追いかけるのだ。


物語を楽しんでいるうちに、ひいきのキャラクターが生まれる。そして作品を一度読み終えたあと、そのキャラクターだけに注目してもう一度読む。そして「もし自分がここにいたら?」「もしこんな展開だったらこのキャラはなんて言うんだろう?」などと考えて楽しむのだ。

疑似恋愛というか、妄想というか、オタクっぽい楽しみかただという自覚はある。

恋人と毎日会っても飽きないように、好きなキャラが活躍するシーンは何度見ても飽きない。何度でも物語を楽しめるし、頭の中でどんどん展開させてさらに楽しめる。

わたしが追いかけているのは物語自体ではなく物語の世界の人物だから、物語が終わっても、キャラクターが生きているかぎりいくらでもそのコンテンツを楽しめる。たとえ死んでも、「幕間にこんなことがあったんじゃ」とひとり番外編を思い描けば、永遠にその世界に浸かっていられる。

逆に、好きなキャラが現れないと、ストーリーがおもしろくてもなんだかはまりこめない。漫画『キングダム』や『弱虫ペダル』などがそうだった。


この安上がりな楽しみ方は一方で、問題もある。それは、キャラクターに入れ込みすぎてしまうことだ。

もっと端的に言えば、「キャラクターが不幸でいるのに耐えられない」

バレーボール漫画『ハイキュー!!』では現在、春高全国大会まっただなか。展開として、主人公の高校が勝つのは当然だろう。しかしライバル校のキャラクターが大好きなわたしとしては、負け試合確定の展開がつらくて流し読みに留めている。

乙女ゲーム『薄桜鬼』は新選組がテーマなので登場人物は高確率で死ぬわけだが、別れのシーンがつらすぎてバッドエンドを見た後は1週間仕事が手につかなくなった。

『テイルズオブベルセリア』ではロクロウというキャラクターにハマって5周したが、実はロクロウではほとんどプレイしていない。わたしはゲームスキルがクソ雑魚なので、しょっちゅうライフが0になって死ぬ。大好きなキャラクターを自分の力不足で殺してしまうのはしのびなく、秘奥義はyoutubeのプレイ動画で楽しみ、自分はちがうキャラでプレイしていた。


「キャラを楽しむ」とはつまり、こういうことなのだ。

キャラが好きで好きでしゃーない。だから幸せになってほしい。物語はそのキャラのことをいじめないでほしい。とにかく活躍してくれればいい。カッコイイところだけ見ていたい。


昔はもっと、感情をぐわんぐわんと刺激してくる作品が好きだった。一緒に泣いて、怒って、笑って……。波乱万丈大歓迎だったはずなのだ。

でももう、感情のジェットコースターに耐える体力がない。昔ほど「全力で感情を揺さぶられる」ことで快感を得られないのだ。ぶっちゃけ疲れる。

マイルドでじんわり響き、許容範囲のなかで行ったり来たりする喜怒哀楽を楽しみたい。感情を動かすーー感動するにも、体力がいる。そしてより良い感動のためには、それを引き立てるための悲劇が必要。その助走に耐えられる、感情の体力がない。つらくてしんどくて諦めちゃう。


中学生や高校生のときは、もっと全力で恋愛して、友だちと衝突して、先生に喧嘩売って、それなりに親と言い合って、なんてことができていたはずなんだけど。

27歳ともなると、触れ幅の大きい感情のジェットコースターに乗るのは、もうつらい。両手を離しても安心して上下に揺さぶられていられるメリーゴーランドのような物語に、心地よさを感じる。

それがいいのか悪いのかは、わからないけれど。

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