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哲学#009.「現実(リアル)」とは。

現実」というのは、半分は曖昧なものだなぁと思います。
 たとえば、自分の出生や容姿などは自分の力ではどうにもならない「現実」です。容姿については整形という方法もありますが、完全ではありません。また、もし片腕を事故で失ったとします。これもどうにもなりません。いくら不満に思っても、受け入れるしかありません。大ざっぱに言ってしまえば、物質的なものは「現実」として私たちの自由を制限します。
 
しかし、人が「現実は厳しいものだ」「現実を直視せよ」「現実なんてそんなものだ」と言うとき、その「現実」とは、すべてどうにもならないものなのでしょうか。人が以上のようなことを言うときは、概して社会的な問題に直面した場合が多いです。自分と社会(外界)との関係がうまくいかない場合です。
 
たとえばマルクスは17歳のとき、『職業選択に関する一青年の考察』で次のようなことを書いています。
人間は神によって、人類と自分自身を向上させるよう、定められている。したがって、われわれ若者は、社会も自分も向上させるような職業につかねばならない。しかし一方で、そうはならない現実がある
 
17歳でこれを言語化できるとは、さすがマルクスですね。
で、やがて彼は自分の自由を制限する現実とは「社会制度」のことであると気づいていきます。そして彼は「社会制度」という現実は変えられると考え『資本論』を展開することになるわけです。
 
社会とは物質ではありません。人間関係のことです。人間関係とはイメージの世界ですね。イデオロギー(社会的に制度化された考え方)に支配されている領域でもあります。
ということは、イメージイデオロギーという物質ではなく想念の世界のことですから、考え方によってはどうにでもなってしまうものなのではないでしょうか。
 
変えられる現実と、変えられない現実については、神学者のラインホルト・ニーバーの次のような言葉が知られています。
 「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものを、識別できる知恵を与えたまえ
 
私はこれこそが、いまの時代に必要な「知性」だと考えています。最近、生きているリアリティが感じられないことを不安に思い、手首を切ったりして自分の体を傷つけて安心を得ている人々が増えてきているといいます。
しかし、飢えや痛みなどの肉体的なものだけがリアリティなのでしょうか。やはりそれはリアリティのほんの一部でしかないと思います。リアリティはもっと複雑に絡み合っていると思うのです。
 
中国の故事に『荘周夢に胡蝶となる』というものがあります。要約すると次のようになります。
 「ある日、荘周は寝ていて夢を見た。夢の中で荘周は胡蝶になっており、ひらひらと心ゆくまで空に舞って自由を楽しんでいた。自分が荘周という意識もない。ところが、ふと目覚めてみると、自分はまぎれもなく荘周なのである。そこで荘周は考える。『いま自分は本当に目覚めているのだろうか。ひょっとするといまが夢の中で、胡蝶が荘周になっているのかもしれない』と」
 
夢と現実の区別の曖昧さを示していますね。これをクールにスタイリッシュに表現すると映画『マトリックス』(1作目)になるかと思います。
 
私はこの映画を観るまでは「夢もまた現実であり、現実もまた夢」などと、「」と「現実」との二項対立で思考を進めていました。「現実ってはかないものだなあ」と悟ったようなことを思っていました。しかしこの映画を観て、私は「第三項」があるのに気がつきました。胡蝶でもない荘周でもない、第三の位相の存在です。
 
映画ではコンピュータが作り出した仮想現実(マトリックス)の世界を夢の中、コンピュータの熱源として栽培されマトリックスの夢を見せられている人々の世界を現実として描いています。主人公ネオが、マトリックスから人々を助け出す闘いの物語です。
マトリックス」とは、「権力」のメタファーでもあります。
 
まず、ネオを栽培装置から助け出したのは、以前からマトリックスに対するレジスタンスとして闘っていたモーフィアスという人物です。彼は目覚めたネオに言います。「現実の世界へようこそ」と。
 
そこで私は違和感を感じたのでした。ネオはマトリックスという仮想現実の世界から抜け出しました。しかし、ネオはこちらの世界でも眠り、そして夢を見るのです。たとえマトリックスの世界から抜け出したとしても、人生が虚しく感じられる人間にとって、やはり人生は虚しいのではないでしょうか。
 
仮想現実の世界から抜け出したというだけでは、問題は解決しないのです。案の定、映画でも現実逃避を望んで元のマトリックスの世界に戻ることを願う人間が登場します。
目覚めることだけが価値ではないのです。
 
そもそも人間の現実感というのは、脳の内部に存在するものです。それは映画でも説明されています。椅子に触ったときの感触も、それは脳による電気信号の解釈にすぎないのだと。
マトリックスから抜け出したとしても、やはりネオは脳で外界を意味づけて解釈しているだけなのです。そこには「これが正真正銘の現実である」と証明する手段はないのです。
 
では映画『マトリックス』は現実というものを描けていなかったのかというと、そうではありません。わたしが何にリアリティを感じたかというと、それはネオの「決断」プロセスなのです。
 
ネオは最初、青いカプセル赤いカプセルを示され、青い方を飲むなら元の世界へ戻す、赤い方を飲むなら現実の世界を見せると言われます。ネオは赤い方を飲む「決断」をします。なぜ彼がその決断をしたかというと、元の世界は彼の望む世界ではなかったからです。しかし、赤い方を飲んだからといって、望む世界に入って行けるという確証はありません。しかし彼は決断しました。何故か。彼は「可能性」にかけたのです。わたしはそこにリアリティを感じたのです。
つまり、夢でもない、現実でもない、「決断」という「第三項(第三の位相)」の発現です。

映画ではモーフィアスが現実の世界を見せる「赤いカプセル」を差し出してくれましたが、現実の世界では他者が「赤いカプセル」を差し出してくれることなど絶対にありません。
赤いカプセル」は自分で探すしかないのです。そこを間違えないようお願いします。

ネオは「決断」と「行為」を繰り返し、最後には敵に捕らえられたモーフィアスの救出に成功します。彼にとって大切な人の救出、それがリアリティというものなのではないでしょうか。
リアリティとは静止した状態のことではなく、「運動」のことなのだと思います。「決断」し「行為」する運動が世界(社会&環境)を変化させていくのだと思うのです。
 
現実(リアル)」とは、夢の中と目覚めているときとの双方を視野に入れ、そのうえで変えられるものと変えられないものを「判断」し、「決断」し「行為」していく「運動」、そして「可能性」のことなのだと思うのです。
つまり、生命の本質を現実化していくことが、この世の醍醐味だと思うわけです。
 

                                     

【余談】
決断」し「可能性」に向かって「行為」することが生きる醍醐味だとすれば、その先には必ず「明るい未来」が「成功」が待っているのでしょうか。映画はたいてい成功で終わります。しかし、みなさんはすでにお気づきのことでしょうが、現実にはそうはいかない場合も多いのですよね。次回は、そのあたりのことについて語ってみたいと思います。

【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考え、心で感じ、自分で調べること
2. 強い体と精神をもつこと
3. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
5. 人の役に立つ仕事を考えること
6. 国に依存しなくても生きていける道を考えること(服従しない)
7. 良書を読み、読解力を鍛える(チャットGPTに騙されないため)

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