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哲学#016.愛は地球を救わない。

」という言葉は胡散臭い言葉だと思います。
なぜなら、多くの人は、その意味を深く考えることなく、個人的に「これが愛だ」と思うことを「」と命名して他者に向けていると思うからです。
どうにでも解釈できる言葉には気をつけた方がいいと思うのです。
 
たとえば、「愛は地球を救う」というフレーズをよくききますが、これはいったいどういうことなのでしょうか。これと同様の文脈で「いま、地球が危ない」というフレーズにもよく出会います。
本当にいま、地球に危険が迫っているのでしょうか。そんなわけはないように思います。危ないのは人類であって、地球ではないと思うのです。

地球は今まで46億年も存在してきました。あと20億年もすると、太陽の熱が上昇するために地球は金星のようになるといいます。普通に考えて、そうなる前に人類は滅亡するでしょう。しかし、地球はそれでも困りません。形を変えて存在し続けるだけです。
また、量子力学的に考えると、地球にも意識があるかもしれませんので、人類が地球が嫌がることをし続ければ、とっとと排除することでしょう。実際、歴史を振り返ってみれば、滅んだ文明は数知れません。ノアの洪水のようなこともあったようですし。
したがって、地球は人の愛など必要ないことがわかります。愛のようなものが必要なのは人の方です。ここに人の転倒があると思います。

人は「」という言葉を使うとき、自分は他者に何かを与えると勘違いしがちです。無意識のうちに上から目線になっている場合が多いように思います。
たとえば、恋人に「愛している」と言うとき、それは「所有欲」「支配欲」の発露だったりします。その証拠に、浮気をされたら、多くの人は怒りますよね。恋人に「愛している」と言われたときは、喜ぶ前にその真意をよく考えてみたほうがいいと思います。

そもそも「」という言葉の意味は、キリスト教と仏教とでは真逆です。キリスト教での「」は「神の無償の愛」ですが、仏教では「執着心」です。
また日本では、明治時代まで「」という言葉はありませんでした。英語を翻訳する都合で使われ普及した言葉です。
 
」とは便利な言葉でもあります。その言葉を出すと、多くの人は勝手に気持ち良くなってくれると思うのです。なぜかというと、「」という言葉が「曖昧」だからです。「曖昧」だということは、自分に都合のよい勝手な解釈を許してくれるということです。
 
」という言葉は、人と人との関係において「ズレ」の「つじつま合わせ」をしてしまう機能を持っていると思います。それゆえに、人は「」さえあれば人と「よい関係」を持つことができ、すべての問題が解決するという「幻想」を抱いてしまうのだと思います。いま、人は「」という言葉を疑う必要があると思うのです。
 
 映画『トラスト・ミー』【※1】は、「」という言葉を疑った人々を描いています。主人公のマリアは、ケバい化粧をしたコギャル(死語?)風の高校生で、素行が悪くて退学処分になってしまったうえに妊娠しているという設定です。「アバズレは家から出て行け」と両親からも拒絶されてしまったマリアは、お腹の子の父親に妊娠したので結婚して欲しいと話します。すると次のように言われてしまうのです。
 
俺が君と? 誰がするかよ。高校中退の腹ボテ女と。ガキを産んで、一日中テレビを見てる気か? 21歳になる頃にはどうなる。そんな女なんか願い下げだ

途方にくれたマリアは、中絶を決意して病院へ行きます。そして看護師に「子供の父親は?」と質問されて、彼女は「いないわ」と答えます。
看護師は事情を悟って、おもむろに机上にあったウイスキーの瓶を手に取ってマリアに「飲む?」と言います。
マリアはウイスキーを飲みながら次のように話します。
 
彼が何を求めていたか、何度も、よく考えてみたの。やっとわかったわ。単純なこと。私の足と、私の胸と、お尻と、口と、あそこだけよ
 
マリアは街をさまよい、その様子を見て心配した見知らぬ女性にお金を恵んでもらいます。そしてそのお金でビールを買い、街の外れの廃屋で飲み酔っ払ってしまいます。
そこへ、父親との関係がうまくいかず家から逃げてきたマシューという男が入ってきます。彼はマリアを放っておけず、自分の家に連れて帰ります。
ここで観客が気づくのは、マリアを心配して親切にするのは家族や恋人ではなく、赤の他人だということです。
 
自分の信じていた世界観が崩壊し、壁に突き当たってしまったマリアでしたが、この映画の素晴らしいところは、ここでマリアがあわてて自暴自棄になるのではなく、現実をしっかりと見据えて静かに立ち上がろうとするところなのです。
マリアは夜ひとりになったとき、ノートを開いてそこに次のように書きしるします。自分の頭で考える作業の始まりです。
 
私は恥ずかしい。若いということが恥ずかしい。愚かであることが恥ずかしい

家族との関係がうまくいかないという問題を抱えたマリアマシューは、互いに助け合うようになっていきます。そしてある日、マシューは恋人の関係にもなっていないのにもかかわらずマリアに結婚を申し込みます。いぶかってマリアは尋ねます。
本気で結婚を? なぜ
そうしたいから
私を愛してるからじゃないの?
その質問に、マシューは次のように答える。
 
尊敬してる。尊敬や賞賛の方が愛情より大切だ。愛は人に愚かなことをさせる。嫉妬やウソや、裏切り、自殺、時には互いに殺し合う

これは「」という言葉の矛盾に突き当たった人間の言葉だと思います。
」という言葉を信じられなくなったふたりは、お互いを結びつけるものは何なのか懸命に考え始めます。彼らは次のような会話を交わします。
マリア「私を信じてくれる?(trust me)」
マシュー「君は僕を信じてくれる?」
マリア「信じるわ」

彼らが最後に導き出した答えが「信頼」でした。素晴らしい考察だと思います。

マシューは不正を強いられる会社に嫌気がさして仕事を辞めてしまっていて、部屋には哲学書を置いている人でした。マリアはそれを借りて読み、わからないことをマシューに質問し、マシューはそれに的確に答えています。「経験主義って何?」という感じです。二人とも「落ちこぼれ」のような状況にいますが、本当は「自分の頭で考えている」のだということが描かれています。

マリアマシューは世の中の現実に対して「不安」と「幻滅」を感じていますが、そこで諦めるのではなく、せめてその日だけでも自分が「納得」できる生き方を探し出そうと懸命になるところが健気(けなげ)で爽やかに感じました。暗くはないのです。
映画は「」のような感情で結びついた人々の関係は崩壊し、「親切・誠実・信頼」で結びついた人々の関係が何かを生み出していく様子を描いていきます。

人は「」さえあれば人と「よい関係」を持つことができるという幻想はもう捨てた方がいいと思います。「よい関係」を持つことができるキーワードは「信頼」なのではないかと思うのです。
相手に対して「愛している」と上から目線で言うのではなく、「あなたに信頼される人間になります」と言った方が「誠実」だし、そこから「よい関係」が始まるのではないでしょうか。

人生ゲームの攻略キーワードは「」と考えている人も多いと思いますが、私は「信頼」だと思います。「信頼」される人間になることが、とても重要です。
人類に希望があるとすれば、それも「信頼」だと思うのです。


                                     
 

【※1】
『トラスト・ミー』ハル・ハートリー監督 1990年米英合作アメリカ映画

ハル・ハートリーは、ニューヨークインディーズブームの火付け役のひとりでもあるのですが、ジム・ジャームッシュやスパイク・リーと比べると、日本では知名度がいまひとつという感じで残念です。セリフに哲学的な言葉がたくさん出てきて面白いです。構成も知的です。いまは、このような一般向けではないけれど知的で表現もありきたりでなく新鮮な映画を作る余裕がなくなってきているようで残念です。
 

【後記】
」とよく混同されてしまうのが「恋愛」という言葉です。この言葉にもいろいろと問題が潜んでいます。「恋愛」に価値をおきすぎる「恋愛至上主義」というのも困ったものだと思います。次回はその件について語ります。

「愛は破れても、親切は勝つ」

カート・ヴォネガット(作家)


【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考え、心で感じ、自分で調べること
2. 強い体と精神をもつこと
3. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
5. 人の役に立つ仕事を考えること
6. 国に依存しなくても生きていける道を考えること(服従しない)
7. 良書を読み、読解力を鍛える(チャットGPTに騙されないため)


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