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哲学#008.「私」とは何か。

拙稿「哲学#007.意識とは何か。」で「意識」は「この世における人生ゲームのコントローラーのようなもの」と結論しました。そうすると、次に浮上してくるのはそのコントローラーを握っている「」とは何かという問題です。
 
私(自己)」も心と同様に階層があると私は考えています。
私がいう「私(自己)」とは、「美味しいものを食べたい」「お金が欲しい」「成功したい」「気持ち良くなりたい」「幸せになりたい」という欲望の中心としての「私(エゴ)」ではありません。
それを超えたところにある「私(自己)」が、「意識」というコントローラーを握るからこそ、見えてくる世界があるということなのです。
 
その「私(自己)」とは、デカルトの言う「我思う、故に我在り」の「」であり、脳神経科学者エリエザー・スタンバーグの言う「意志決定能力のある道徳的行為主体性」の「主体性」であり、思想家クリシュナムーティの言う「自己認識は『知恵』の始まりであり、『新生』の始まりである」の「自己」であり、韓国歴史ドラマ『根の深い木』の主人公の言う「決意のない私など私ではない」の「」です。【※1】
 
人がよく「私探し」や「本当の自分探し」の旅に出るのは、それがあることを知っているからだと思います。
しかし「」とは、旅に出たからといって、そう簡単にみつかるものでもないと思います。どこを探せばみつかるのか、その「見当」をつけておいた方がいいと思います。
というわけで、考察してみようと思います。
 
まず「自己」というと、「自己でないもの」から「自己」を区別し、個体のアイデンティティを決定するというイメージがあります。つまり、世界と自分との間に線引きをして、ここからは「自分」と決めるわけです。
この働きは「免疫」の仕組みに似ています。
 
免疫」とは、体の外部からの侵入者である細菌やウイルスなどに対して免疫細胞などが「自分でないもの」と「自分」とを識別し、体を守る仕組みです。
では、人間の意識レベルにおいて、「自分でないもの」と「自分」とは、どのように区別されているのでしょうか。
 
生まれたばかりの赤ちゃんの意識はウロボロス的だといわれています。ウロボロスとは、自分の尾を自分でくわえて円になった蛇で、ギリシャ語で「尾をむさぼり食う者」という意味をもちます。
つまり、自分で自分の尾を食べて自己充足しているため、外部を認識することがないということです。したがって、外部と身体の区別もなく、自己と他者の区別もありません。いわゆるカオスで無限ループなのです。
 
母親の胎内にいるときは、それでいいのかもしれませんが、外に出てきてしまったからには、外の空気を呼吸して、人はひとりの人間として生きなければなりません。
ひとりの人間として生きる「行為(態度)」が必要になってくるわけです。そしてそれが「私(自己)」を確立することであり、「大人になる(人間になる)」ということなのだと思うのです。
 
免疫学者の多田富雄氏は「生命は『自己』を組織化(創出)していくもの」と定義されています。【※2】
これは人間の「意識」にも応用できる考え方だと思います。
 なぜなら、人間は常に「自己」を組織化し直すことによって可能性に向かって開いていると私は考えているからです。で、自己組織化するためには、自己認識が必要になります。自己認識がなければ、新たに作ったり壊したりできません。
というわけで、人がひとりの人間として生きるためには「自己」を認識しなければならないと思うわけです。
 
で、その「自己」を人間はどのようにして認識するかというと、それがなんとも複雑で難しいのです。
たとえば、奇跡の人として知られるヘレン・ケラーが例となるかもしれません。彼女がどのようにして「自己」を認識したかというと、彼女は「他者」と「自己」の間にある「第三項」として「言葉(意味)」の存在を知ったことによると思います。
 
ケラーは耳も聞こえず目も見えなかったため、外部を認識することができず、7歳で言葉を獲得するまでは、ただ刺激に反応するだけの怒りっぽい暴れん坊だったそうです。両親は彼女を不憫(ふびん)と思い甘やかし放題だったといいます。しかし、しつけもできないまま成長させるのも不憫と思い、アニー・サリバンという家庭教師を雇いました。
 
サリバンケラーを甘やかしたりせずに厳しく接しました。なぜなら、たとえケラーが世界に対して無制限の保護や愛情を期待したとしても、それはかなえられるものではないということを教える必要性を感じていたからだと思います。世界はケラーのためにあるのではなく、ケラーが世界を理解し、そこでどのように生きるか自分で考えなくてはいけないということです。
 
サリバンはまず小さな一軒家でケラーとふたりきりで暮らすことを決めました。なぜなら、両親から引き離さないと、ケラーは両親に甘えてしまうからです。
それまでケラーは食事のとき、スプーンを渡しても放り投げてしまい、手づかみで食べていたそうです。サリバンがそれをたしなめると、ケラーは抵抗して野獣のように暴れたといいます。
 
サリバンの偉大さは、そこでひるまなかったことです。彼女は体ごとケラーにぶつかっていきました。つまり、ケラーが暴れるなら、それを体を使っておさえる「行為」に出たのです。言葉が通じないのであれば、体と体で働きかけ合うしかなかったということです。
ふたりきりの家の中で、格闘は2週間も続いたといいます。その間、サリバンは根気強くケラーの手に指文字を触れさせ続けました。そしてある日、お互いにうんざりするほどの体当たりの反復の「行為」の果てに、ケラーサリバンの「行為」の中に、ひとつの法則性を発見するのです。
 
それは、サリバンの誘導に従うと、優しく接してもらえキスしてもらえるということでした。そして、そのキスは悪い意味ではないということを認識したのです。ケラーはこのとき、「意味」の世界の入り口に立ったのだと思います。
サリバンケラーの両親への手紙に次のように書いたといいます。
奇跡が起こりました。ヘレンがわたしのキスを受け入れました
 
その後、ケラーは少しずつサリバンに対して心を開き、仲良くするよう努力するようになったといいます。
そして、そのような日々の後、戯曲や映画『奇跡の人』でおなじみの感動シーンがくるのです。サリバンケラーを井戸まで連れて行き、ポンプの蛇口から出る水に触れさせて「water」と指文字を手に押し付けるのです。ケラーが「water」という言葉が、流れ出る冷たい水を指すと理解する瞬間です。
 
なぜケラーがそれを理解できたかというと、世界には「言葉」という「手続き」を経て橋をかけられる「他者」が存在し、そして自分も「言葉」を使えば他者に意志を伝えることができるというメカニズムを認識したからです。「社会的関係」の認識です。
ここで重要なのは、「他者」を認識したと同時に、他者に橋をかけたいという「意志」と「行為」をもつ「自己」が立ち現れたということだと思います。
 
また、もうひとつのポイントは、ケラーがどうして「他者」を「意志を伝えたい相手」として認識したかということです。それは、サリバンへの「信頼」だと思います。サリバンが根気よくケラーに意志を伝えようと体ごとぶつかってきた「行為」への信頼です。ケラーサリバンとコミュニケートすることに「意味」があると思ったはずなのです。
 
ケラーが言葉の「意味」を理解できたのは奇跡ではないと思います。サリバンとのやりとりという「文脈(コンテキスト・プロセス)」があったからで。人が「意味」をつかむのは「言葉」そのものからではありません。「文脈」から「意味」をつかむものなのではないでしょうか。
まっとうな「手続き」があったからこそ、まっとうな帰結として起こったことなのだと思います。真に奇跡でグレイトなのは、サリバンの存在です。
 
サリバンもひとりだけの力でサリバンになったわけではありません。サリバンをとりまいていた社会サリバン個人との関係から、サリバンが「自己」を組織化していった結果なのです。
 
ケラーが水に触れて「water」という言葉の意味を理解するシーンから感じる感動は、人によって違うかもしれません。なぜならば、その「文脈」から読みとる「意味」は人それぞれ違うからです。
文脈」とは「社会」と言っていいと思います。「感動」は、「社会」を抜きにしては訪れないと思うのです。そして「意味」も、「社会」を抜きしては語れません。つまり「感動」は、「社会」からどのような「意味」をつかんだかによって違ってくるのではないでしょうか。
 
感動」とは、単なる「刺激に対する反応」とは次元が違います。そして、それは「文脈」から「意味」をつかむことができる「自己」がなければ感じることができないと思うのです。
そのような感動を知らない人は、マスメディア(権力)や偽教祖が捏造した感動を偽物と見抜く力がありません。簡単に洗脳され操作され、奴隷となってしまいます。
 
自己(私)」とは、単に他人と違う体をもった自分を指すのではありません。「社会関係」中にあるものです。「社会」と「」がクロスするところに位置し、コントロールする意志を持つものです。
クリシュナムーティも次のように語っています。
自分自身を知るということは、行動している自分、つまり自己と他者の関係を知ること。自分自身を知れば知るほど、はっきり物事が見えるようになる。自己認識には終わりがなく、目的を達することも、結論に達することもない。それは果てしない河のようなもの。それを学び、その中に深く突き進むにつれて、あなたは心の平安を見いだしていく
 
自己他者の関係を知るということは、そこに「意味」を見いだし「行為」するということです。
意味」の重要性については、ホロコースト生還者で精神科医として知られるヴィクトール・フランクルは次のように述べています。
私たちが『生きる意味があるか』と人生に問うのは、根本から間違っているのです。つまり、私たちは生きる意味を問うてはならないのです。なぜなら、人生の方が私たちに『生きる意味』を問うているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは答えを出さなければならない存在なのです」
「『意味への意志』が健康的に働いていれば、人は自分の置かれた状況がどのようなものであっても『生きる力』が湧いてきます

 
実際、フランクルはホロコーストの最中、自分の「生きる意味」を心の支えとしたことで強制収容所での過酷な状況を耐え抜き生還することができたといいます。
では、どこに「意味」を求めればいいのかというと、それを免疫学者の多田富雄風に語ってみれば「生命という大きなコンテキスト(文脈)の中での意味を問う」ということであり、思想家のクリシュナムーティ風にいうと「私たちの存在の全体の意味を問う」ということです。
 
ヘレン・ケラーは「意味」をつかみ「私(自己)」を組織化(創出)し、その後は障害者の教育・福祉の発展に尽くす人生を歩みました。
そしてクリシュナムーティの言うように「自己と他者の関係を知れば知るほど、はっきり物事が見えるようになり、それを学び、その中に深く突き進むにつれて、心の平安を見いだしていく」ことになったようです。
彼女は次のように語っています。
世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じるものなのです」と。

たぶんケラーは他者との関係の中に「意味の鉱脈」を発見したのだと思います。そこに「」を見たのでしょう。
それは脳神経科学者エリエザー・スタンバーグの言うところの「心の宮殿」であり、リドリー・スコット監督の映画『キングダム・オブ・ヘブン』で表現されていた「心の王国」【※3】です。

というわけで、本当の「」を確立するには、この世界で「意味」をつかむ必要があると思うのです。そのためには、他者を知り、ウロボロス的な全能感から抜け出さなければなりません。自分の限界と孤独を噛みしめたうえで、カオスの中から「意味」をつかむのです。
欲望の中心とは少し次元の違う「私(自己)」を確立しなければ、人は本当に人とつながることはできないと思います。自他の区別がつかず、思考が無限ループし閉じている人とは真の意味で話がかみ合うはずがありません。

まずは「私(自己)」をつかめ。「態度(行為)」を決めろ(決断)。話はそれからだ。ということです。


                                     

【※1】
『〈わたし〉は脳に操られているのか : 意識がアルゴリズムで解けないわけ』エリエザー・スタンバーグ/インターシフト
『自我の終焉:絶対自由への道』J・クリシュナムーティ/篠崎書林

韓国歴史ドラマ『根の深い木』は、15世紀朝鮮王朝4代王の世宗が漢字の読み書きができない民のために、表音文字(ハングル)を創製しようとするのですが、民が知識と知恵を持つことを恐れる既得権益者たちの妨害が激しく、命がけで志を成し遂げようとする世宗と彼をサポートする人々の戦いのドラマです。主人公は世宗をサポートする武官です。彼は最初は世宗を暗殺する目的で宮中に入り込みますが、世宗やその周囲の人々と接するうちに、世宗の志をサポートする側に「」の舵を切ります。それも「」をつかみ、「態度(行為)」を決めたからこそ、命がけで志を貫くことができたのです。とても考えさせられるドラマでした。
ちなみに、ハングルはたった24文字で構成され、それを覚えるのに、頭のいい人なら半日、そうでない人でも10日もあればいいとのことです。

【※2】『免疫の意味論』多田富雄/青土社

【※3】
心の王国」については、拙稿「哲学#005.心とは何か。」をご参照ください。

※冒頭の画像は、映画『奇跡の人』より。

幸せとは、視野の広い深遠な知識をもつことです。
その知識とは、嘘と真実、低俗なものと高尚なものを見分ける力です。

ヘレン・ケラー


【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考え、心で感じ、自分で調べること
2. 強い体と精神をもつこと
3. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
5. 人の役に立つ仕事を考えること
6. 国に依存しなくても生きていける道を考えること(服従しない)

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