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哲学#003.管理支配社会に組み込まれないために必要な、強い精神とは。

すでに気づいている方も多いと思いますが、世界はいま大変革期に差しかかっているようです。人間の歴史を振り返ってみれば、人間社会は変革期を繰り返し、いまに至っています。
したがって、いまの価値観の世界が、これからも未来永劫続くわけがないというのは認めざるをえないと思います。

産業革命の時代が終焉を迎えつつあり、これからは情報革命の時代に入っていくことでしょう。つまり、工業的に何かを作り売ることが価値であった時代が終わり、情報そのものが価値となりコンピューティング技術、人工知能(AI)、生物工学(バイオテクノロジー)をコントロールできる人々が利権を得る時代です。それが人間にどのような変化をもたらすのか、想像の範疇を超えてしまうかもしれません。

歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリなどはすでに「私たちは新たな特異点に近づいているのかもしれない。その時点では、私、あなた、男性、女性、愛、憎しみといった、私たちの世界に意義を与えているもののいっさいが、意味を持たなくなる」と述べています。

産業革命によって私たちは、工業と戦争のために「産めよ増やせよ」と機械の歯車のような存在にされて使い倒されてきました。人間は多ければ多いほど富裕層にとっては都合が良かったのです。
ところが工業の時代が終わりつつあるいま、歯車としての人間は不要になってきたと彼らは言うのです。

彼らとは「世界経済フォーラム(WEF)」のことです。ダボス会議とかG7とか世界のトップクラスのエリートが集まって地球の未来のことを話し合っていますね。彼らは歯車階級の人間を「人間」とは思っていないようです。ユヴァル・ノア・ハラリも彼らの一員です。

で、彼らの考えでは、これからは人工知能(AI)生物工学(バイオテクノロジー)の発達にともなって、人間の感情を人間よりはるかにうまくモニターして理解できる「ビッグデータアルゴリズム」が誕生するとのことです。

ビッグデータアルゴリズム」は、人間の健康状態をモニターできるようにもなります。私たちが自分で異常を感じるより先に、インフルエンザや癌やアルツハイマー病を最初の段階で検知することができるわけです。そして私たち一人ひとりに特有の体格やDNAや性格に合った適切な治療や措置、食事、日々の養生法を推薦できるようになります。つまり、人工知能(AI)の方が人間より優れた判断を下すようになるというわけです。

このようになってしまうと、人間は人間より人工知能(AI)の方を頼るようになるのは火を見るよりも明らかです。ますます人間は自分の頭で考えることをしなくなるでしょう。
実際、SNS上である方がご主人の愚痴をchatGPTに相談してみたところ、カウンセラーより適切な回答があったとのことで「人間に相談するより私に寄り添ってくれる」と報告していました。

そのような流れに組み込まれてしまうと、彼らにとって人間を管理支配するのは簡単です。彼らの都合のいいように誘導し、体のどこも悪くなくても悪いと騙して医療を受けさせお金を払わせ続けることが可能になります。
私が恐れているのは、そのような管理支配システムに組み込まれしまうことなのです。
そこに人間の「自由意思」はありません。そしてそれは人間の「存在意義」が無くなってしまうことだと思うのです。

この3年間の疫病騒ぎを通じて人工知能(AI)やIT技術を駆使した監視体制が強化されています。マスメディアは憎悪や恐怖・不安を刺激して人々の注意を引いて誘導しています。そして人工知能(AI)は人に「最適解」を差し出し、本人に意識させない形で思考と行動を操作するのです。

ボーッと生きていたら、知らないうちにシステムに組み込まれてしまうでしょう。そうならないためには、それに対抗する「強い精神」が必要になるのです。で、精神を鍛えるためには「哲学」が有効だと私は言いたいわけです。

哲学」というと、ソクラテスだとかヘーゲルだとかニーチェだとか哲学の知識の体系をベースに思考を進める場合が多いです。しかし、それだけにとらわれてしまうと、それは往々にして「学問」の方向へ行ってしまう傾向があり、哲学の「知識(データ)」を得ることだけで、自分が哲学しているつもりになってしまう恐れがあります。

哲学」とは「学問」ではなく、どちらかというと「スポーツ」に近いものだと思います。
たとえば水泳の場合、水泳の知識はあっても、実際に水に入って自分の体を水に対応させる方法を「トライ&エラー」を繰り返しながら体(頭脳を含む)で会得していかなければ、泳げるようにはなりませんね。
哲学」も同様で、哲学の知識があっても、実際に世界との関係性のなかで自分を世界に対応させる方法を体で会得していかなければ、哲学できるようにはならないと思うのです。

哲学」ができるようになるとは、登山でも水泳でも釣りでもスノーボードでもサーフィンでも音楽でもダンスでも絵でも仕事でも同じで、上達すれば面白いし、人生に幅ができることは間違いありません。
生活に張りが出てきますし、共通の興味ある話題で、いつまで話していても飽きない友人もできます。人生の師ともいえる達人に出会うこともできます。自分が追究し鍛錬してきたことについて、自分より凄い人に出会ったときなどは、ちょっとした感動ものです。「ああ、生きていてよかった」という感じです。世の中、捨てたものではないと思うとともに、世界に対する「信頼」が生まれるのです。

孔子の論語に次のような有名な節があります。
子曰く(いわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。
朋(とも)有り、遠方より来たる。また楽しからずや。
人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。
(師の教えてくれたことを学び、それを繰り返し実践し身につける。なんと喜ばしいことだろう。同じ志をもつ友人が、たまには話がしたいと遠くからでも来てくれる。なんと楽しいことだろう。たとえこうした生き方を他人がわかってくれなくても、気にかけたりはしない。だって私は君子(達人)だもの

朋(とも)有り、遠方より来たる。また楽しからずや」までの節は一般でもよく語られる部分だと思います。しかし、肝心なのはその後に続く「人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや」だと思うのです。これがあるからこそ、前半部分が生きてくる。
つまり「たとえこうした生き方を他人がわかってくれなくても、気にかけたりはしない。だって私は君子(達人)だもの」の部分が重要なのです。これこそが強い精神をもった人間が達する「境地」なのだ、と私は言いたいわけです(笑)。

誰にへつらうわけでもなく、自分の信じる道を行く。他人がわかってくれなくても、自分がわかっていればそれでいい。それで私は幸せなのだ、ということです。
孔子は安定した公職につくことができず、国から国へと渡り歩く人生を送ったため、悲劇の人と言われることが多いですが、私はそうは思いません。彼は彼なりに幸せで、人生を楽しむことができていたと思います。
彼は権力者におもねることなく、生き抜くことができた人なのです。

もし彼が弱い精神の人であったなら、とっとと権力者におもねって、それなりの公職についていたと思います。そういう人生を送らなかったのが、孔子の強さなのです。
もうひとり、強い精神をもった人を紹介しておきます。それは古代ギリシャの哲学者ディオゲネスです。
彼はソクラテスの弟子アンティステネスという人の、そのまた弟子です。
アンティステネスは「真の贅沢は、物質、権力、健康など外面的なものにあるのではなく、精神のありかたにある」というようなことを説いた人です。

で、弟子のディオゲネスはその教えを実践し、アテネ郊外に捨てられていた大きなの中で暮らしていた人として知られています。住んでいる場所に飽きてしまったら、をゴロゴロ転がして移動していたそうです。それでも賢人としての名声はギリシャ中に広まっていたとのことで、次のような逸話が残されています。

その頃、アレクサンダー大王がギリシャを征服し、国中から有名な政治家や哲学者が祝辞を述べに行っていました。しかし、ディオゲネスは出向かなかったといいます。
アレクサンダー大王アリストテレスを家庭教師として育った教養人で、ディオゲネスの噂を聞いて興味を持ち、彼が来ることを心待ちにしていたそうです。しびれを切らした大王はある日、直接ディオゲネスのもとへ自分から会いに行くことにしました。

大王が行ってみると、ディオゲネスは大王の一行には目もくれず、樽の前で日向ぼっこをしていたといいます。他の人々はみな大王にひれ伏していたというのにです。
無視された大王は自ら馬を降りてディオゲネスに歩み寄って言いました。
余は大王アレクサンダーであるぞ
ディオゲネスは寝そべったまま言いました。
余はディオゲネスであるぞ
大王はあきれてたずねました。
おまえは余を恐れないのか
ディオゲネスはあいかわらず寝そべったままたずねました。
おまえは善い人か、それとも悪い人か
もちろん善い人だ
おまえが善い人なら、恐れる必要などないではないか。善い人が私に危害を加えるはずはない
1本とられたことに気がついた大王は大喜びで言いました。
さすが噂にたがわぬ賢人だ。褒美に何でも望みをかなえてつかわそう
するとディオゲネスは表情ひとつ変えずにボソッと言ったそうです。
それでは、そこをどいてくれないか。おまえが立っているせいで陽が当たらなくなっているんだ
またしてやられた大王は感激して「もし、余がアレクサンダーでなくてもよいのなら、ディオゲネスになりたい」と言ったそうです。

まかり間違えば殺されるかもしれない状況のなかで、平然と自分の「信念」にしたがった行動をとる。これは強い精神の持ち主(達人)にしかできないことだと思うのです。
信念」とは、「道理(真・善・美)」を目的として向かう「哲学」の道の過程において得られた「結実」であり、その人にとって最も大切なものです。そのためには命がけになれるものです。
ディオゲネスにとって最も大切なものとは、権力に屈することのない「自由」だったのではないかと思います。
アレクサンダー大王もそれがわかっているからこそ「自分がアレクサンダーでなくてもよいのなら、ディオゲネスのように自由になりたい」と言えるわけで、ここにもお互いを認め合う「信頼関係」が成立しているのです。

権力」や「金銭」より、日向ぼっこをする「自由」の方に価値を見いだす。これは、社会通念を無防備に受け入れ、脊髄反射的に生きている人間にはできないことです。「自分の頭で考える」という行為をしなければ不可能。人間は「思考」し、その結果、自分の命よりも大切なものを発見してしまうことがあるのです。不思議です。

自分を振り返ってみれば、自分の信念にしたがって行動しようとは思うけれど、権力ある人に強く反対されてしまうと、ついつい、ま、いいかという感じで、なるべくトラブルはさけようとしてしまいがちです。小さなトラブルをさけようとして自分を偽っているうちに、どんどん望んでいた自分から自分が遠ざかっていき、自分を見失いそうになってしまうことがあります。

人間はかなり前から「権力」と「金銭」の奴隷です。つまり、人間は弱い精神であるがために「権力」と「金銭」に負け続けてきたわけです。その行き着く先が「管理支配社会」なのだと思います。

いま、何も考えずに脊髄反射的に生きていれば、管理支配システムに組み込まれる流れにいくのは確実だと私は考えています。その流れに乗らないために、自分の頭で考え心で感じ疑問を調べて強い精神の持ち主(達人)になって、現在の価値観がひっくり返る事態になっても変わらない価値を発見し、自分の行き先を自分で考え、人生を楽しめるポジション(境地)に立ってください。

目指すのが生き延びることではなく、人間らしさを失わないことであるなら、事実が明らかにされようがされまいが、彼らにこちらの思いを変えることはできない。

ジョージ・オーウェル


【おまけ】
冒頭の画像は、ジョージ・オーウェル原作の有名なディストピア映画「1984」のもので、内容は暗いものでしたが、ディストピアをコミカルに皮肉的に描いた面白いYouTube動画があったので、ご紹介しておきます。

■ ユートピア(豪州 / 2019)


【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分で考え、心で感じ、疑問を自分で調べること
2. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
3. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
4. 強い体と精神をもつこと


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