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東京は「東京らしいこと」から抜け出せるか

東京の地方とは違う所を書き出して、「東京らしいこと」をしたいなぁと書いている記事なんだけど、僕なんかは逆に、いまだにこういう感じの場所であるなら、正直もう「東京」という場所に魅力は感じないなと思ってしまいました。

というのも、上記の記事でシロクマ先生が書き出している

  • いろいろな地方の物が買える

  • 専門店が多い

  • イベントが多い

  • 最先端のものがある

  • 雰囲気のある町並みが残っている

といった内容の全て、今までの「東京らしいこと」の模倣でしかないように思えることだからなんです。

東京の欲望を模倣した地方

上記で挙げられた「東京らしさ」って、一昔前までは、日本のほとんど、特に郊外や地方と言われる場所が目指していたものだったと言えるでしょう。

「欲望とは他者の欲望である」という有名な言葉がありますが、マスメディアが発達し、東京から発せられる情報こそが日本の文化全体を支配していた時代には、「東京の人々が求めるもの」、つまり東京の欲望をそのまま模倣し、東京の人々が求めるものと同じものを求めることこそが、大衆の欲望の姿を規定するものだったわけです。

そしてその結果生まれたのが、各地方の地方性を無視して、とにかく「東京と同じものを買える」、ユニクロやGAPといったファストファッションの氾濫で、そういった風に地方が均一な場所になっていくことが、「ファスト風土」と揶揄されたりもしたわけです。

1:快適な「ワクワク」を求める国道沿い

一方で、近年起きているのは、そのようにあくまで「東京の欲望」を模倣していた地方が、自らの欲望を獲得し、それに基づいて地方らしさを獲得する、そんな過程ではないかと思う訳です。

例えば近年、「快活CLUB」や「すたみな太郎」といった、国道沿いによくあるお店が、独自の「面白い文化」として、インターネットやマスメディアで取り上げられるようになりました。

また、地方独自のロードサイド店、例えば僕の地元で言うと「さわやか」みたいな、その地方独自のチェーン店みたいなものも、よく話題になります。

これら国道沿いに存在するお店の共通点が何かというと、「快適」でありながら「ワクワク」するという点にあります。

ここで重要なのは、それらお店で得られる体験が、あくまで「快適」に得られるある点にあります。

もちろん東京でも上記のお店のようなワクワクを得ることは可能ですし、むしろもっと刺激的なワクワクを得ることもできるでしょう。

しかし東京の場合、そのワクワクするお店に行くまでに、満員電車に乗り、ゴミゴミとした町並みを抜けていかなければなりません。

そして、お店に着いた後も、東京だと大抵そういうお店は独自のローカルルールみたいなものがあって、それを破ると白い目で見られてしまうわけです。つまり、「ワクワク」を得るために、ある程度の不快を許容しなければならないのです。

そして、ロードサイド店や郊外のアウトレットモールが好きな人は、まさにそういう不快さが耐えられなくて、「東京に行くぐらいならむしろ地元でショッピングするわ」と、別になんの諦めもなく言う訳です。

このように、ロードサイドの文化は、東京の模倣から、むしろ東京より快適な体験を人々に与える、独自の文化となりつつあるわけです。

2:その場所に敢えて限定される路地裏

一方で、こういう「快適に得られるワクワク」じゃ満足できないという人もいます。ファスト風土に批判的で、東京が好きという人の多くはそういう人で、上記の記事を書いたシロクマ先生もそうでしょうし、僕もどちらかというとそのタイプです。

ただ、そういう人の中にも地方にUターンすることがあるわけで、そしてUターンした人の中には、地方でも「ちょっと敷居は高いけど、独自の文化がある場所」を創造しようという動きが、90年代~2000年代頃からありました。

ただ正直そういう動きは最初は失敗だらけで、それこそ東京によくある、オシャレな古本屋や雑貨店をそのまま地方に持ってきて、「あー地方にUターンした若者が作るタイプの店ね」と類型化されてしまうような、そんなお店が多かったわけです。

しかし近年になると、そういうお店が淘汰されていく中で、「その場所ならではの文化」を持つお店が現れてきました。

例えば僕は広島県の尾道という町が結構好きなのですが、好きな理由の一つに、「尾道ならではの雰囲気」を大事にしている店が、下記のように結構あるからなんですね。

まあ、尾道なんかは、尾道三部作という文化遺産もあって、地方興し成功例の中でも上澄み中の上澄みではありますが、他の地方でも、結構行ってみると「おっ」というお店が多くなってきている印象があります。

なぜそれらのお店が個性的な魅力を持つようになったかというと、「その地域に敢えて限定されるようにしている」という点にあると、僕は思うわけです。

最初に触れた記事にあるように、専門店の品揃えでいったら地方が東京に勝つのはどだい無理な話です。ですから東京の「なんでもある」という個性をそのまま模倣しようとしても、結局東京の劣化版にしかならない。

しかし、実は「なんでもある」ということは、つかみ所が無いということでもあるわけです。そこで、成功している地方の路地裏店は、敢えてその地方の特色に合わせて、品揃えを限定するんですね。

そして、その限定により、その地方独自の文化が生まれてくるわけです。そして、そのお店の品揃えを見て、そういうお店で物を買ううちに、「その地方独自の視点」というものが、獲得できるんですね。

一方、単身地方から東京に出てそういう「独自の視点」を持とうとしてもなかなか難しい、何でもあるが故に、逆に自分の視点を規定するものがない状態に陥ってしまい、結果東京の一般大衆の模倣しかできなくなるわけです。

そうなると、むしろ東京で迷い続けるより、地方に籠もって独自の視点を手に入れるというのが、いわゆる「尖った連中」の選択肢にあがってくるわけですね。

今の東京は、かつての東京の欲望を模倣しているのではないか?

このように、地方は、東京を模倣することから出発しながら、しかしその過程で「国道沿い」「路地裏」といった独自の文化を獲得していったわけです。

しかしではその間東京はどうだったでしょうか?かつて東京で欲望されたものを、そのまま求め続けて、結果として同じ文化を進歩も無く再生産するだけに、なっているのではないでしょうか?

東京では日々再開発が行われ、新しいビルがどんどん建っていますが、しかしどのビルもそんなに入る店に変わりはありません。海外で流行った○○というブランドを目玉にし、流行の飲食をいれるか、ポケモンセンターやキャラクターショップを作るかという感じで、行っても「またこういう感じのショッピングモールか」と思うことが多々あります。

そういう店に飽き飽きして、今度は町歩きをしてみます。そうすると確かに「期待したとおりの」町並みが待っていますが、しかし逆に言えばそれだけです。

新しいものが得られるというよりは、「ああここは変わらないな」という安心感を得るだけの場所なわけです。そりゃそうでしょう、新しいことをしようとすれば、↓のように恨み辛みを書かれるんですから。

唯一、様々なイベントが行われることは、まだ東京の優位性として残ってますが、しかしそれも、このコロナ禍を契機にしたオンライン配信やメタバースの流行で崩れつつあります。

というか、そういう面白さって、「イベントが面白い」「人が面白い」というだけで、別に東京という場所自体の面白さでは無いですよね……

東京は、「かつての東京から受け継がれる良さ」ではない「今の東京の良さ」を生み出すことができるか

僕は、1980年代に生まれ、90年代に地方で少年期を過ごしました。多分東京という物に夢や憧れを持った最後の世代でしょう。

そういう自分からすると、今の東京がかつての東京の模倣となるのは、「ざまーみろ」という気持ちもある反面、少しの寂しさもあります。

ただ、今のままだと東京は、単なる資本の一時的な集積地、グローバル社会における支店経済都市になってしまうのではないかと思わざるを得ません。

そうならないためには、まず今までの「東京らしいこと」を、東京という街自体が抜け出す必要が、あるのではないでしょうか。

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