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「手段」と「目的」に二分できないからこそ、この世界は面白い

noteを色々見ていたら面白い記事を見つけたので、紹介しながら感想を書いてみる。

この記事は、フランスのゲームデザイナーの書いた文章を翻訳した記事になっていて、その主張を簡単に要約すれば

  • 最近「ゲームの教育的効果」みたいなものが盛んに研究され、「教育的なゲーム(シリアスゲーム)」というものが生み出されてもいる

  • しかし、そもそも他の文化、文学・絵画・ダンス・音楽・料理というようなものは別に「教育的効果」みたいなものを問われないのに、なぜゲームだけ特別「教育的効果」みたいなものが問われなければならないのか

  • 「ゲームには教育的効果があるから存在して良い」ということになれば、逆に「教育的効果がないゲームは存在しなくて良い」ということにならないか

  • 別にゲームに教育的効果なんてなくても、ただ楽しいからそれをやるで何が悪いのか?

というものです。

この主張自体は僕はもっともだと思います。ただ、その一方で、こういうことを言えるのは、フランスという、まだ「文化的なもの」の価値が認められている文化圏だからだよなーと、思ったりもするんですね。

というのも、そもそも日本では、この文章の著者が「教育的効果がなくてもいいもの」としている、文学・絵画・ダンス・音楽・料理にさえ、それに本当に「教育的効果」があるのか、問われることになってるからなんですね。

文学でさえ「教育的効果」が問われる日本

要するに、これまでは漠然と「国語の時間で学ぶもの」とされてきた文学が、今の国語では学ばなくなり、その代わりに実用文だけ学ぶことになるかも、というわけです。

ただ、僕はこういう議論が出ること自体は良いと考えています。「無駄な学び」なんてものはないというのはもっともな話ですが、しかしその一方で学校教育で教えられる時間は有限なわけです。有限な時間の中で、子どもたちに何を学ばせるかを考えるなら、ただ前例を踏襲するのでは無く、現代の社会環境に合った時間配分にすべきなわけで、その中では当然「実用文を増やして文学を減らす」という選択肢もあって当然なわけです。

ただ、そういう議論をすると当然「では文学を学んで得られることは何?」と言う話になるわけですね。実用文、例えば契約書の読み方とかをきちんと教えれば、詐欺に遭ったりすることはなくなるし、将来仕事でそういう文章を書くことになったとき役立つかもしれない。じゃあ文学を教えて、その子の将来に役立つことがあるの?と。

それに対して、「文学を学ぶことにはこういう効果がある」という主張もあります。例えばnoteでもこんな記事があって、その中では「他者への想像力を育む」なんてことが言われていたりします。

ただいずれにせよ、今まで漠然と「学ばれるべきもの」とされてきた文学に対しても、それが本当に子どもたちの人生に役立つのか?その役立ち度は、他のものを学んだとき役に立つのか立たないのか?ということが、日本では問われているわけです。

でも、そもそも「人生に役立つこと」って何だろう?

ただ、そういう議論を聞いているとき僕はふとこういうことを思ってしまうんですね。

そもそも、『人生に役立つこと』ってなんだろう?」と。

実用文を学べば仕事に生かせる、文学を学べば他人の心を想像することができるようになる。けど、言ってしまえばそれだけのことなわけですよ。別にそれが直接その人の幸福になるわけではない。それによって人生の余裕を増やして、その余裕で自分がやりたいことをやることができるから、幸福につながるわけですね。

それに対して、一番最初に上げた文章では、「ゲームは、ただそのゲームを楽しいからやるんだ」と、言われているわけです。

言ってみれば、国語教育の話では、文学という文化が人生における「手段」として捉えられているのに対して、ゲームの話では、ゲームという文化が人生における「目的」というように捉えられているわけです。

「ゲームに教育的効果を認めるか」という問題を考えるときは、そもそもこの二つの立ち位置の違いを考える必要があるでしょう。

でも、そんなに「手段」と「目的」って明確に分かれないよね?

ただ、そう考える一方で、「でも、そんなに「手段」と「目的」って明確に分かれないよね?」ということも思ったりするわけです。

例えば、「文学を学べば他者への想像力を持てる」みたいなことを言われますし、僕もそう思って文学を読んだりするわけですが、しかし実際に文学を読んでいて思うのは「結局他人の心なんてわかんねーなー」と思うばっかりのことな訳です。

第一、もし文学で他人の心が分かるようになるなら、なんで日本の近代文学者のほとんどが、人間関係でしくじっているかというわけで。むしろ、人間関係とか周りの評価とか、そんなこと気にすんなよという考えが、文学を読んでいて僕が学んだことだったりするわけです。

つまり、ここでは本来「手段」として読んでいたはずの文学が、「人の心を分かる」という「目的」を覆すものになったわけですね。

この逆のこともまた言えます。それこそ「ゲームの教育的効果」なんていうのは、本来そういうもので、例えば桃太郎電鉄

をやっているうちに日本の地理を覚えるなんていう話も、桃太郎電鉄それ自体がやっていて楽しいゲームだから成立する話なわけです。

そして、そうやって「桃太郎電鉄をやらせれば地理の勉強になるらしい」と考えた親が、子どもに桃太郎電鉄をやらせたら、今度は子どもがゲームにどはまりしたりというように、手段と目的は容易に転倒するものなのです。

「ゲームはそれ自体が楽しいからやるんだ。それ以外の動機でやるのは不純だ」というメッセージは、「ゲームには教育的効果がなければならない」というメッセージに対する反論としては役立つでしょうが、しかしそのメッセージが一人歩きすると、今度は上記のような転倒を否定する言葉になってしまうのでは無いかと、僕は危惧したりするんですね。

大事なのは「これは教育的効果がないから子どもに与えるべきでは無い」とか「教育的効果を狙ったゲームはクソだ」みたいに、安易に決めつけるのではなく、その文化がこの世の中に存在する意味を真摯に考えることなのだと、僕は思いますね。

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