「申し訳ない」という裂け目 -ハイデガーとラカンをもにょもにょして-
常々ハイデガーとラカンの述べる良心や罪悪感についての議論が折り合わさり、自分の中でリアリティが形成されつつあるという認識がある。しかし自分は学術畑の人間ではないので、あくまでハイデガーとラカンについての議論は補足程度に行うにとどめ、この両者を叩き台に良心や罪悪感について自分なりにつらつら書いていきたいと思う。
罪悪感を感じることは日常的なことだが、そこに根差しているメカニズムとは何なのか。単純に考えればそれは道徳の次元の話に還元されるわけだが、その次元が一次的ではないと考える余地はある気がする。そこに関して言えば、罪悪感を感じる時に日常的に使われる「申し訳ない」という日本語表現は、そういった罪悪感のメカニズムを説明する上での良い切り口になりえると考える。
申し訳ない、というのは、弁解の余地がありませんということに等しい。何か理由があって正当な行為を行ったのではない時、そういった後ろ盾がないことを「申し訳ない」と形容する。だから、人を殺してはいけないのに人を殺した場合、人を殺す正当な理屈が存在しない以上、申し訳(=言い訳)がないがために、「申し訳ない」と述べることになる。
しかしなぜ申し訳が必要なのか。他人の溜飲を下げるためという理由もあるだろうが、申し訳がありながら他人が納得しないケースも存在する。人を殺して「そいつから金を奪うために殺したんだ」と言ったところで、殺された側の人間が納得するわけはない。したがって、申し訳は他者のために存在するのかと言われれば、その線は必然的なものではないというのが理解できる。となると、違う方向性をもって申し訳の存在意義が見出されていくはずなのだが、他者に意義を求められないというならば、申し訳の意義はどこに求められるのか。自分は思うに、その意義は自分に求められると考えている。
そもそも申し訳とは言語的な落としどころである。よくわからないものが言語表現によって分節され、分かるものへと落ち着いていく。カオスな現象を物理現象として法則的にとらえることも、自身の失敗をノートを取りながら反省していくことも、もっと卑近な例で言えば、金色に実った植物を 「稲」と「米」というラベルで切り取っていくことも、その全てが言語に落とすという作業である。これらの例を貫く形で理解できるように、私たちはわからないものに対し、言語によって落としどころを付け、安定するという癖がある。言語化というのは安定化であり、その筋で言えば申し訳が立つことも安定化である。
これに関してはハイデガーの「語り」概念に触れると分かりやすい。ハイデガーによれば「語り」とは言表することではなく、存在を分節することである。ヒューバート・ドレイファスが言うには、この「語り」は英訳すると「telling」である。これだけ見ると誰かに何かを伝えるというイメージのみが触発されがちだが、「tell」は例えば「I could tell what you said.」といったように、「理解する」という意味で使用されることもある。つまり金色に実った植物というカオスの存在を「稲」や「米」と分節することで安定的に理解できるように、存在に対して「語り(=telling)」を行うことによって、分節が起こり、初めて理解ができるようになる。つまり語りを伴った言語化とは分節であり、そして分節による安定化である。
そしてそれはご多分に漏れず自己存在にも当てはまる。すべての人は常に自身の存在を言語的に自我の次元へと安定化させる。単なるうつろいゆく実存に過ぎないものが、自我やアイデンティティといった外部の換喩的な概念を与えられる。この時自己は自らの存在そのものへの配慮を忘れることになるが(これをハイデガーもラカンも「疎外」と形容する)、自身を安定した名前や身分を持った社会的な単位として再認可能となる。
では「申し訳ない」と述べた時はどうか。申し訳が立たない状況というのは自分を正当化できない状況だと言える。そうなると、自己の存在に対して安定した地盤を持つことができず、単なるうつろいゆく実存として、不安定な存在の次元に自己が宙吊りにされることになる。
自己の存在がなんら言語的土台を保てず不安定になる際、人はその自身の存在のむき出しになった姿を直に生きることとなり、不安を感じることになる。先に述べた内容を繰り返せば、人は通常自己存在の外部の自我やアイデンティティへとおのれを疎外させているわけだが、その疎外を外された瞬間、人は丸裸にさせられ、不安に陥るのである。
卑近な例で言えば、例えばギャグが滑るというのもあるべき理路を外れる行為である。ギャグが滑った時、人はなぞるべき理路が存在しない空白へと放擲され、人はその不安定さに不安を感じる。たとえばYoutubeか何かで霜降り明星せいやが、自身が滑った瞬間を「自分がおらんくなったみたいな感じ」と形容したのが興味深い。理路を外れた先にはアイデンティティという概念も存在しない。あの視界が歪むような非常事態は、まさに人が自身を保つ理路を喪失し、不安定さの中で不安を感じる現象そのものなのである。
このように、人が理路を失うとむき出しの中で狼狽し不安を感じるということは卑近に想像できる。そしてこれは申し訳が立たない状況でも同様だと考えられる。社会の中では倫理道徳の理路が存在し、人はその理路の中で安定して暮らしている。しかし罪を犯すと、人はその理路を外れ、自己の行為およびその行為を生み出したおのれの存在が何の説明も受け付けることのできないむき出しの極地に立たされる。この時に不安が発生し、この不安が「罪悪感」と呼ばれることとなる。
ハイデガーもラカンもこの罪悪感について示唆的である。
ハイデガーにおいては「良心の呼び声」の議論が当てはまる。ハイデガーによれば、人は理路を外れた際に自己の存在がむき出しとなり不安を感じるが、その不安において人は「良心の呼び声」という語り(telling)を聴き、おのれに最も固有な存在をおのれ自身に暴露することとなる。この時着目すべきなのは、ハイデガーがむき出しになった自己存在そのものと初めて直面するための契機となる語りを「良心」と呼称したことである。ハイデガーによれば、この良心の呼び声は通俗的な道徳的良心の契機となる。つまりハイデガーからすれば、自己存在が理路を失いむき出しになってしまうことへの不安は、良心の感情ないしは罪悪感へと接続されうるものなのである。
ラカンにおいても似たような議論が行われている。ラカンによれば、人は自らの存在を正当化するためにアイデンティティなどの言語的な概念へと自身を疎外させる。しかしその時、人は不可逆的におのれのリアルな存在そのものを説明できない状態へと陥る。その結果、この説明可能な領域の外側のリアルに対し、人は負債を負うこととなる。結果、この負債となるむき出しの存在、その裂け目に対し、人は罪悪感を感じることになる。
ハイデガーとラカンに共通しているのは、罪悪感の根源に、究極のリアル、緊密な理路の中で開けた裂け目、むき出しの存在を置いていることである。日常において、罪や失態を犯した状況こそが説明や弁解のできない状況であり、その状況に対し人は「申し訳ない」と述べ、罪悪感を感じる。それを踏まえると、この「申し訳ない」と感じる罪悪感とは、究極のリアルとしての自己存在そのものという深淵を暴露する感覚なのである。
簡単に、ラフに総括する。人は何らかの失態を犯した時、アイデンティティとして形成した自己に定位しながら正当化の理屈が立てられないような、そういった申し訳が立たない局面に直面することになる。この時人はアイデンティティというバーチャルな対象ではなく、自己の存在そのものというリアルを理路の裂け目から垣間見ることになる。それにより人はその深淵に対する不安を感じることとなる。これが罪悪感の正体である。
しかし別の視点から考えると、罪悪感は罪や道徳の文脈に必ずしも依存しない感覚であることが分かる。具体的な罪がなくとも、裂け目を垣間見ることがあれば人は深淵へと放擲された不安としての罪悪感に蝕まれることになる。精神疾患の人間は存在しない罪に苛まれ、ときには自身への罰として自傷行為を行うこともある。彼/彼女らは社会的に形成された理路に対して安定した定位を得ることができず、それゆえにその不安定さが突拍子もなく罪悪感として露呈し続けてしまうのである。
しかしこの罪悪感に蝕まれた者こそが、不安定さゆえに安定を求め、獲得できていない理路を自らの手で創造しようとする芸術者だとも言える。それは統合失調症の症状でもあるが、別の場合には作品という理路へと結晶することもある。創造する者が病んでいるのは、このむき出しの深淵を垣間見る中で罪悪感を感じているからである。しかしこの罪悪感を感じているからこそ、自らの生存のために作品を作り続け、既存の理路に回収されない外部を市井の人々へともたらすのである。
補足:
ここで書いた内容を踏まえた上で想定できる批判点は、「ハイデガー『存在と時間』の存在概念にはラカンの言う現実界の次元は含まれないのではないか」というものである。確かにハイデガーが『存在と時間』第7節で定義した現象=存在はエロスの領域であり、タナトスを包含しきれないように見える。しかしハイデガーの述べる「良心の呼び声」は、象徴的ファルスへの同一化による欠如を埋め合わせる幻想としての対象aに一致すると考えられないだろうか。対象aの類型の内には「声」がある。良心の呼び声は、それこそハイデガー自身が述べるように神と解釈されてしまうような、そういった「想定された知の主体(SsS)」として、ハイデガーを含めた人々の理想を担うのである。私は、この良心の呼び声の彼方には不安を触発する「全体存在の彼岸」があると考える。ハイデガーは現象学者としてエロスの次元の定位を固持しつつも、その外部を不安や呼び声を契機に透かし見ていたのではないか。その透かし見によって理解した存在には、現実界への射程が含まれうる。
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